函館旅行二日目は、おもに、啄木ゆかりの地を巡りました。
前日宿泊した湯の川温泉の旅館を出て、札幌に向かう2人を函館駅に送り届け、
まずは西部地区に向かいます。
西部地区は函館山に向かって、正面から右側の地区、
函館は何度か大火に見舞われ、その都度、街の大半を焼き尽くしていますが、
西部地区は大火から免れ、
歴史的建造物がたくさん残っている街並みです。
赤レンガの金森倉庫などがあるベイエリアは意外に観光客が少なく、
静かな雰囲気でした。
赤い靴少女像にご対面です。
西波止場美術館前の広場に一人静かに立っていました。

2009年8月7日に除幕されたばかり、全国6基目のきみちゃん像です。
函館出身でローマ在住の彫刻家、小寺真知子さんの作品、
靴は赤く塗られ、像は銅の色に輝いています。
赤い靴の「きみちゃん」と函館との関係、
石川啄木との関係などについては、
コチラ⇒
赤い靴の女の子は異人さんに連れられて行かなかった西波止場を散策し、
ここから歩いてすぐのところにある「函館市文学館」に行きました。
石川啄木関連の資料を豊富に持っている文学館です。
ちょうど「啄木直筆資料展」が開催されていました。
館内撮影禁止なので、鎮座している啄木像や、
貴重な直筆資料の数々は目に焼き付けるしかありません。
日記、書簡、原稿などなど、
活字で読んだことがある歌や文章が並べられています。
文学館の建物自体も、大正10年(1921)年に第一銀行函館支店として建設されたもので煉瓦及鉄筋コンクリ−ト造3階建の歴史的建造物です。
館内撮影禁止だったから、うっかり、外観も写真に撮りませんでした。
文学館を出て、港沿いに車を走らせ、
子どものころ、岸壁で魚釣りをしたあたりに行ってみましたが、
どこも「この先、関係者以外立ち入り禁止」です。
市電の終点「函館ドック前」は「弁天」と呼ばれていた地域、
ここから山に向かって坂道を昇ると、外人墓地があります。
外人墓地の向かいには「地蔵寺」があり、
ここには「万平塚」(まんぺいづか)があります。

解説板にはこのように書かれています。
石川啄木の歌に、「むやむやと 口の中にてたふとげの事を呟く 乞食もありき」というのがあるが、この乞食こそ明治から大正にかけての函館の名物男で名を万平といった。
ユーモアがあり、人から恵んでもらわない気骨のある乞食で、毎朝ゴミ箱を探し歩き、その家の人物評を日記風に書き残した。
一例を上げると「11月1日(明治39年)今朝好天気なれば先以て山田邦彦君(函館区長)の芥箱を探しにゆく。流石に山田君の夫人は、文明の空気を吸われつつあり、豚の脂身一塊、大根の皮と共に捨てられたるは、西洋料理の稽古最中と覚ゆ・・・」などとある。
この塚は、大阪から所用で来た鉄鋼場主「藤岡惣兵衛」が、万平にタバコの火を借りようとした際「帽子も取らずに」となじられたが、その人柄に感じ入り、大正4(1915)年万平の死後、供養塔として函館の知人の協力を得て建てたものである。 函館市
万平塚に手を合わせ、函館山のふもとの道を走ると、
啄木が代用教員を務め、あこがれの女性「橘智恵子」に出会った、
「弥生小学校」があります。

この建物は昭和13年に竣工したもので、もちろん啄木の時代のものではありません。
当時としては珍しい鉄筋コンクリート造りの堅牢な建築物ですが、
70年以上も経過して老朽化と地域の過疎化が進み、廃校となることが決まっています。
ただ、歴史的建造物として何らかの形での存続を熱望する市民もいて、さまざまな議論が行われています。
校歌を刻んだモニュメントが歴史を感じさせるうっそうと茂った樹の下に佇んでいました。

元町周辺の教会群、公会堂周辺は、ずいぶんきれいに整備されました。
このあたりの坂、
坂の上に立って、港を眺め、周辺の建物を見るだけで、
港町らしい風情があります。
今日はそこを通り過ぎて、
函館公園に向かいます。
この公園もすばらしいですね。
公園の広場の函館山方面に啄木の歌碑があります。

碑に刻まれている歌は、
函館の青柳町こそかなしけれ
友の恋歌
矢ぐるまの花
解説板には、
「全国に数多く点在する啄木歌碑の中でも一番美しいできばえといわれるこの歌碑・・・」と書かれているのですが、
刻まれた文字が風化によって、読み取りにくくなってしまいました。
函館公園の正面出入口を出て左手に向かって歩くと、200メートルほどのところに、「啄木居住地跡」があります。

この小路の奥の借家に家族を呼び寄せて住み、
文学仲間と恋を語り、人生を語り、文学を語り合った場所です。
函館の大火なかりせば、落ち着いた生活をもう少し長く、しあわせな生活が出来たのでしょうが。
函館公園正面からまっすぐ海に向かって進むと、そこは大森浜から続く津軽海峡に面した海、
「東海歌」の原風景だという説もある「住吉漁港」があります。
もちろん、啄木の時代とは違うのでしょうが、
うーん、
ここが「東海の・・・」の歌の原風景と言うには、
ちょっと無理があるんじゃないかな、
たしかに、
啄木の居宅からもっとも近いところにある海だから、
啄木は頻繁に来たと思うけど、
ここで「東海の・・・」を詠ったとは思えないなあ。
函館山の左端にある立待岬(たちまちみさき)に啄木一族の墓があります。
案内標識に導かれて狭い急坂を進むと、「啄木一族の墓」の標識があります。
車を1台停めるスペースがあったので、停めさせてもらいました。
休日などは、込み合うだろうから大迷惑な行為でしょう。
その先、すぐ近くの岬の突端には広い駐車場があるから、そこに停めて、歩いて引き返すのがいいでしょう。

この墓には啄木をはじめ、妻節子、3人の子ども、両親が納められ、津軽海峡を眺めながら静かに眠っています。
墓の表面には「東海の小島の磯の白砂に・・・」が刻まれていて、
青柳町の啄木居住地を向いているそうです。
「千の風になって」の作曲者である新井満さんは、
この墓にお参りし、啄木と言葉を交わしたと著書に書いていましたが、
いかにも啄木が語りかけてきそうな、
そんな雰囲気があるお墓です。

啄木一族の墓のすぐ隣に、「宮崎家一族の奥城」があります。
(「奥城」はお墓のこと。)
石川啄木一家を物心両面で支え続けた宮崎郁雨もここに眠っています。
宮崎郁雨は、啄木の妻節子の妹と結婚しましたから、啄木とは義理の兄弟に当たりますが、自らも歌人であり、啄木をたたえる歌や偲ぶ歌なども数多く遺しています。
一族の墓の隣に歌碑があります。

蹣跚と
夜道をたどる
淋しさよ
酒はひとりし
飲むものならず
(蹣跚=まんさん よろめき歩くさま、酔歩)
この歌碑の隣に「砂山影二」の歌碑があります。
わがいのち
この海峡の浪の間に
消ゆる日を想ふ
――岬に立ちて
立待岬はかつて、自殺の名所と言われた断崖絶壁ですが、
砂山影二は立待岬に立って、死への願望と闘っていたのでしょうか。
解説板の内容です。
宮崎郁雨と砂山影二の歌碑
●宮崎郁雨の歌碑
宮崎郁雨(本名、大四郎)は明治18(1885)年に新潟県で生まれた・その後一家は来函し、父親は味噌製造業を営んだ。明治39年に文芸結社苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)ができると、その同人となった。翌40年に啄木が来函してから、郁雨は物心両面にわたって暖かい援助を続け、42年、郁雨は啄木の妻節子の妹ふき子と結婚した。
郁雨は家業を継ぐかたわら、短歌づくりを続け、昭和37年に亡くなった。この歌は没後刊行された「郁雨歌集」の中の「自問自答」に収録されているもので、歌碑は昭和43(1968)年に函館図書裡会が建立した。
●砂山影二の歌碑
砂山影二(本名中野寅雄)は、大正7(1918)年に函館で創刊された文芸誌「銀の壺」の同人として活躍した。
石川啄木を深く崇拝し、その短歌に傾倒していたので、彼の作品には啄木の影響がみられる。人生に懐疑的であった影二は、大正10年、青函連絡船から身を投じ、弱冠20歳の命を絶った。
この歌は「坊ちゃんの歌集」の前文にあるもので、歌碑は昭和43(1968)年、海峡評論社と函館図書裡会が建立した。 函館市
砂山影二の名前は、GGは初めて聞きました。
大正10年で20歳だから、明治35年ごろの生まれ、
啄木が亡くなった明治45年、影二は10歳。
20歳で亡くなるまでに、熱心な文芸活動をしたのでしょうが、
ちょっと早まったね、
もう一皮むけて、大人になってから死んでもよかったのに、と思います。
砂山影二のことをいろいろ調べてみたんだけど、
なかなかみつかりませんでした。
海峡評論社と函館図書裡会が建立したこの歌碑、
若者の切ない想いが伝わってくるんだけど、
この歌碑を建立して満足しているんじゃなくて、
この若者の功績を顕彰してほしいんだよね。
今の状態だと、
啄木かぶれの、
ただ暗いだけの青年でしかない。
影二の他の作品を読んでみたいね。
立待岬の突端近くに、
与謝野寛・晶子夫妻の歌碑があります。

碑に刻まれている歌
濱菊を郁雨が引きて根に添ふる立待岬の岩かげの土 寛
啄木の草稿岡田先生の顔も忘れじはこだてのこと 晶子
「岡田先生」とは函館図書館の創設者であり初代館長であった
岡田健蔵氏のこと、
岡田健蔵は啄木資料の保存に尽力した。
昭和31年、岡田健蔵の13回忌に当たり、与謝野寛・晶子夫妻が昭和6年6月6日に来函した際に詠草した歌のなかから、この歌を選んで碑に刻んで、岡田氏を顕彰したもの。
郁雨や岡田先生という名前を通して、与謝野夫妻の啄木への慕情が伝わってくるような歌です。
立待岬にはライオンズクラブが浜薔薇の花壇を作ってくれました。
津軽海峡の海の色、
遠くに見える下北半島・津軽半島の陰、
ゆるやかに弧を描く大森浜の海岸線、
美しい空と雲、
函館の景色をしばしながめて、
少しは啄木の心に近づいたかな?
岬から一方通行になっている帰り道に
「
碧血碑」の案内看板があります。
案内に沿って、車を停め、うっそうとした林に入って行きます。
車が通る道から200メートルほど、林の中を歩き、
やはり、うっそうとした木々に囲まれて、碧血碑はありました。

碧血碑は五稜郭戦争で敗れ去った土方歳三はじめ、旧幕府軍の死者を弔うために篤志家が建てたもの。
賊軍を弔うことに、当時は抵抗があり、ひっそりと目立たない場所を選んで建てられたことがよく理解できます。
モニュメントの立派さに引き換え、
この場所は、誰も寄り付かないような、うっそうたる林の中です。
霊気が漂うような感じはありませんが、
(もともと霊感は持ち合わせない)
あまり長居はしたくない場所ですね。
この碧血碑の左にある松の木の更に左に小さな目立たない碑があります。
啄木が詠んだ歌は、この小さな碑に刻まれた漢詩のことです。
函館の
臥牛の山の
半腹の
碑の
漢詩も
なかば忘れぬ
次の目的地は大森浜にある
啄木浪漫館
土方歳三と啄木の資料が展示されています。
2階が啄木館。
劇場があって、啄木の人形が国語の授業をしてくれます。
15分ほどの授業でしたが、なかなか面白い趣向でした。
外には
啄木小公園があります。
大森浜の岸に打ち寄せる波の音を聞きながら、
ベンチに腰掛け、
啄木の想いをあれこれと想像します。
西條八十の啄木に捧げる詩碑がありました。

眠れる君に捧ぐべき
矢車草の花もなく
ひとり佇む五月寒
立待岬の波静か
おもひでの砂ただひかる
捧啄木 西條八十

啄木にはとてもふさわしいシチュエーションですね。
この啄木像の作者は札幌出身の彫刻家、本郷新。
札幌大通公園の銅像も本郷新によるものです。
こちらは、啄木浪漫館の前にあるオブジェ、

詩集「あこがれ」と歌集「悲しき玩具」の本です。
見開きになっているのは歌集「一握の砂」、刻まれている歌は
砂山の
砂に腹這ひ
初恋の
いたみを遠く
おもひ出づる日
啄木浪漫館建設を記念して 平成11年12月3日と記されていました。
一日じゅう、
ずいぶん歩きまわりました。
函館を愛した啄木の心に少しは近づけたかなあ?
啄木小公園の写真は、夕方になると逆光で啄木像も函館山も真っ暗になってしまうので、
翌朝、朝日を浴びる時間に撮影したものです。
大森浜も実にきれいな砂と波でした。
だいぶ、長い記事になってしまいました。
最後まで目を通していただき、
ありがとうございます。
明日は、啄木以外の
函館の魅力について、
写真もたっぷり掲載します。