石川啄木


2012年05月05日

別冊太陽「石川啄木 漂泊の詩人」新発売


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平凡社の「別冊太陽」が歿後100年記念として『石川啄木 漂泊の詩人』という雑誌を発行しました。

雑誌にしては少し高いな、と思いつつも、さっそく楽天ブックスから取り寄せてみました。

これはすてきな本です。

全ページフルカラー印刷、
パラパラめくっても楽しいし、
じっくり読んでも啄木のすばらしさがあらためて認識できる。
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啄木は今年が没後100年、
各地でさまざまな追悼行事があったり、記念の歌碑が建立されたりしている、

100年経っても、毎年数多くの本が出版されていて、
もう研究し尽くされているだろうと思っても、新しい資料が発見されたりして、話題を呼んだりする。
興味を持って、啄木作品を読み、研究している人が多く、啄木を顕彰しようとする根強いファンが多いようです。

内容はこんな雑誌です。
【啄木の歌との対話】
『一握の砂』と『悲しき玩具』
  人生という小宇宙
【啄木名作の栞】
 未完のままに残した多くの仕事
  啄木文学の魅力
  石川啄木名作小事典
  「啄木日記」の魅力
【啄木の生涯】
 哀切の生涯の素描
  人間・啄木の生涯
  生き急いだ二十六年の生涯

それぞれの項目を、そうそうたる啄木研究家の先生たちが担当して、新たに書いてくれた記事、
啄木のことはよく知っていたつもりでも、新たな視点を教えてもらったりして、
なかなかたのしい本です。

きれいな写真がふんだんに掲載されているのがいいですね、

これを一冊本棚に置いておけば、啄木に関するあらゆる事柄の索引としても使えそうです。

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2012年04月14日

石川啄木没後100年


1912年4月13日は、
今からちょうど100年前ですが、
石川啄木が26歳の生涯を閉じた日です。

いろいろな著名人の▲▲忌がありますが、
啄木忌の行事も、毎年、各地で行われています。

今年は特に、ちょうど歿後100年に当たるので、旭川、釧路には新しい歌碑が建立されました。

テレビでも特番が用意されているのかなと期待していたのですが、
あまりやってくれませんでした。

そんな中で、
ついさっきまで、(4月14日13:30〜14:00)
BS朝日で、
「石川啄木没後百年特別番組 啄木の警鐘」をやっていました。

内容は、NPO法人「森びとプロジェクト」が刊行した絵本『サルと人と森』の紹介で、
百年以上も昔、二十歳そこそこの青年が、今の時代にも通用する警鐘を鳴らしていた、
啄木をリスペクトする番組でした。

「森びとプロジェクト」はテレビでおなじみの岸井成格さんが理事長を務めるNPO法人、
森づくりを通じて「自然環境と人間の命を大切にする心を育む」人づくり
をする活動を行っているようです。

「森びとプロジェクト」のホームページには、
『サルと人と森』の紹介ページもあり、朗読を聞くこともできます。

絵本『サルと人と森』の原本は、
石川啄木が明治四十年九月二十日発行の『盛岡中学校校友会雑誌』第十号に石川啄木の署名で発表した「一握の砂」という文の一部分。
この時期、啄木は小樽で新聞記者をしていて、十月二日の日記に、「盛岡中学校の校友会雑誌来る。予が贈りし『一握の砂』を載せたり、」と書いています。

後に発行される啄木の処女歌集『一握の砂』はまだ発想すらない時期ですから、何の関係もありません。

『一握の砂』の内容は、後輩たちにさまざまなことを説く、先輩から後輩へのメッセージというような内容ですが、その文章の終りのほうに、
「林中の譚を記さむ」として書かれています。
 人あり、ひとり林中を行く。樹上幾十尺の枝に一疋の猿あり、下瞰(かかん)して人に問ふて曰く、人よ、我は汝等の祖先なるに、汝等何故今我が族を嘲るや。

こんな書き出しで始まり、猿と人間との会話が進んでいきます。

内容は実にメルヘンチックで、多くの示唆を含んでいるのですが、
この文語体ではなかなか読み下すのがたいへんです。
そこで、石川啄木記念館の学芸員・山本玲子さんが訳し、多摩美術大学卒業生の鷲見春佳さんが絵を描いて発刊しました。
一般の書店にはない本ですが、ジワジワと売り上げを伸ばしているそうです。
この本があることは知っていたんだけど、まだ手にしていない。
その前に、啄木の原文「林中の譚」を読んでみたんだけど、
難解ながらも、文語体もなかなかいいものだと思いました。

啄木没後100年、
テレビを見ながら、熱烈な啄木ファンが今もずいぶん多いんだなあと思いました。

昨日、たまたま土岐善麿(哀果)の歌集を開いていたら、
歌集「雑音の中」に収められている歌、「啄木を憶ふ」に出っ食わしました。
啄木忌のまさにその日、啄木さん、導いたのかなと思いつつ、
21首中、冒頭6首を記して、啄木を偲ぶこととします。
かくてあれば、わが今日をしもあらしめし亡き友の前にひそかにわく涙。
友としてかつて交はり、兄として今はもおもふかはることなし。
かれ遂にこのひと壺のしろき骨、たつたこれだけになるにけるかも。
おほきなる悲しみをここにうづむると、かのなきがらを土にうづめし。
あきらめてこころひそかに憤る、この病友を慰めがたし。
人のよの不平をわれにをしへつるかれ今あらずひとりわが悲し。

  
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2011年11月07日

劇団“波”京都で一人芝居「啄木の妻 節子星霜」


東京では、
SMAP稲垣吾郎さん主演の、
「泣き虫なまいき石川啄木」の舞台、

なかなかチケットが手に入らない状況だったようですね。

石川啄木に関する舞台で著名なのは、

 井上ひさし「泣き虫なまいき石川啄木」
 三谷幸喜「ろくでなし啄木」

などがありますが、

2011年11月12日(土)、13日(日)に
劇団“波”の京都公演
啄木の妻 節子星霜」の一人芝居があります。

このブログにコメントの書き込みがあったので、
ホームページを見てみました。

これです。
http://namikyoto.blog.fc2.com/

山本卓さんという方が書いた「啄木の妻節子星霜」という本があることは知っていたんだけど、
最近の傾向として、
井上ひさし「泣き虫なまいき石川啄木」と、端的に表現されるように、

「啄木って、どうしようもない奴、その点、苦労した妻の節子は偉かった」
という風潮が拡がり過ぎているように思う、

もちろん、井上ひさし「泣き虫なまいき石川啄木」はそんな作品ではないし、
充分、啄木をリスペクトしているものなんだけど、
表面だけ見て、「どうしようもない啄木」というレッテルを貼られてしまうのは、
なんとも偲びない。
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この本も、節子礼讃、啄木をけなしているんだろう?!

ホームページhttp://namikyoto.blog.fc2.com/に著者である山本卓さんのビデオメッセージが掲載されていました。

山本卓さん、
啄木についての理解と
啄木をリスペクトする気持ち、ハンパじゃないですね、

「啄木の妻 節子星霜」と、妻節子を主役にしているけど、
啄木の偉大さを踏まえた上での「節子」という抑え方です。

京都まで、その一人芝居を観るために、
飛んで行くことはできないけど、
さっそく、楽天に本を注文しておきました。

来年は和歌山県御坊市と東京での公演が決まっているそうです。

札幌で公演があれば、行くんだけどなあ。

楽天でみつけた本、、
 井上ひさし「泣き虫なまいき石川啄木」
(単行本は売り切れ、全集に収録)
と、三谷幸喜の舞台DVD「ろくでなし啄木」です。
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posted by GG at 15:39 | Comment(1) | TrackBack(0) | 石川啄木
2011年08月31日

啄木の妻 節子


明治時代の歌人「石川啄木」、
代表的な歌集は「一握の砂」と「悲しき玩具」

よく知られた歌は、

     東海の小島の磯の白砂に
     われ泣きぬれて
     蟹とたはむる

明治45年、
満26歳という若さで亡くなっています。

残された歌や詩、小説、評論などは
いまだに色あせることなく新鮮で、
多くの啄木ファンがいます。

啄木の生涯は貧しく、
妻節子もその貧しさゆえに、病気にかかり、
啄木の死の翌年に、
同じく26歳で、函館の病院で亡くなっています。

啄木と節子の恋は熱烈なもので、
啄木が学校を退学する一因となったとも言われていますが、

わがままで、
見栄っ張りで、
自信過剰気味の啄木に、
命がけで尽した節子の生き方に焦点を当てた本も多く出版されています。

図書館で見つけたこの本、
上・中・下の3巻、一気に読みました。

昭和55年(1980年)に出版された本だから、
新品はなかなか買えないでしょう、

楽天の中古本にありました。

啄木の妻節子から見た啄木を描いているんだけど、
なかには、これまでに明らかにされていない部分を
明快に書いている箇所がたくさんあります。

節子が宮崎郁雨から受け取った、
「写真を1枚送ってほしい」という内容の手紙で、
夫婦げんかになったのに、
翌朝には二人ともけろっとしていたというあたり、

節子の郁雨に対する想い、

など、何を根拠に書いているのか?
これはたしかなことなのか?

と思わせる部分があって、そのまま鵜呑みには出来ないなあと思う個所もあります。

序文やあとがき、解説もまったく無いので、
あるいは「小説」(フィクション)として読むべきなのか、
しかし、実在の人物のことを書いているのだから、
引用されている書簡などは、出典を明らかにしてしてほしいと思いました。

啄木の歌がいくつか引用されているのですが、
文字が抜けていたり、
漢字とかなの使い分けが違っていたりなど、
この著者は信用できないぞ、と思ったりもしましたが、

なかなか読ませてくれる本でした。

こんな本もあります。

この本の著者「堀合了輔」は節子の実弟、
肉親から見た啄木の妻節子や啄木をどんなふうにとらえていたのか興味があるところです。

新刊書はたぶん手に入りませんね。
図書館にあったから借りてきました。

  
posted by GG at 15:57 | Comment(2) | TrackBack(0) | 石川啄木
2011年05月21日

函館市文学館 石川啄木遺品展見学


道南小旅行2日目、
今日は朝のうち、函館市文学館館で開かれている
「石川啄木遺品展〜百回忌によせて〜」を見学し、

そこから松前に向かう予定です。

湯の川温泉のホテルから函館山に向かって車を走らせ、
ベイエリアに近い函館市文学館を訪ねます。

函館市文学館

函館って、こんな古い建物が多いんですよね、
特に、この近辺は函館でも古い街並みだから、
一般の民家でも、函館独特の建物が多いんですよ。

函館独特の家って、どんな特徴があるのかというと、

1階は和風で、戸や窓は引き戸、
2階は洋風、窓はギロチン窓(上下に上げ下げする窓)や観音開きの窓。

函館はペリー来航のときに開港したから、
港に近いこの界隈では、
貿易商や倉庫業などの建物も多く、
当時のままに残っています。

函館市文学館で開かれている
「石川啄木遺品展〜百回忌によせて〜」は2011年10月17日まで開催されている企画展で、
こんなものが展示されています。

・盛岡中学時代の文芸誌「爾芸多麻(にぎたま)」
・啄木が使っていたドイツ語やロシア語の辞書
・小樽のかたみ(啄木自身が作成したスクラップ)
・小説や短歌の自筆原稿
・金銭出納帳      など

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これらの資料は、企画展の期間だけの展示ですが、
函館市文学館には、数多くの常設展示資料があります。

手にとって、頁をめくって観たい資料がたくさんあるんだけど、
そうはいかないし、
写真も撮らせてもらえません。

館の学芸員の方に説明を聞きながらゆっくり見ていたら、
あっと言う間に、3時間ぐらい経ってしまいました。

お昼の時間も過ぎて、
申しわけない気持ち、

一方で、
この後のスケジュールが狂っちゃった!?

えい、ままよ、
函館ラーメンでも食べて、
スケジュールを考えよう。

函館ラーメンのウリは「塩ラーメン」、
やたらと「函館」を強調している店に入って食べてみたんだけど、

少し、がっかり、
GGが期待していた「函館ラーメン」ではなかった。
観光地の食べ物に期待は出来ないとは思ったんだけど、
これじゃあ、函館ラーメンがかわいそうだなあ。

この辺りは、
先日の津波が押し寄せ、テレビにも映っていたところだけど、
まったく後遺症は無いようで、

この近くで育ったGGは、
この海風に吹かれ、
潮の香りを吸い込むと、
“ふるさと”だなあとつくづく思います。

さて、
今夜、札幌への帰着は遅くなるけど、
せっかく行こうと思っていた松前、
なかなか次の機会もなさそうだから、
行くことにしました。

けっこう、遠い道のりでした。

  〜つづく〜
  
posted by GG at 15:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 石川啄木
2011年05月15日

2011年小樽啄木会・啄木忌


小樽啄木会は毎年、
ひと月遅れの啄木忌を開催しています。

啄木が亡くなったのは、
明治45年(1912年)4月13日のこと、
今年が満99年、
100回忌にあたります。

GGはここ数年、欠かさず参加しているのですが、
記念の講演がいつもなかなか興味深いんですよ。

ことしは、札幌の啄木研究家の方が、
「画像で楽しむ啄木とのおつきあい」
というテーマで、お話をしてくれるというから、
たのしみに、でかけてきました。

いつもは車で行くことが多いんだけど、
今回は、車が邪魔になりそうに思ったから、
JRで行ってきました。

100年以上も昔に、
啄木も乗って、
見たであろう石狩の海岸の景色を見ながら、
というのも、たまにはいいものです。

小樽駅到着、
ずいぶん、きれいになっていましたよ、
特に、トイレ、
天井が低くて暗かったトイレが、ずいぶん明るく、清潔感を感じました。

外装も手直ししているようです。

今回は、
講演会のほかに、
 ・古書店で古本探し
 ・啄木が住んでいた家=現在は料理店を訪ねる
を目的にしていました。

ところが、目指す古本屋は、
がっちりとシャッターが下りています。
閉めちゃったのかなあ? 残念

啄木が小樽時代に住んでいた南部せんべいやの2階の二間、
隣に占い師がいたというのは、

現在の花園町3丁目にある
「たじま」という料理店、
そこに、標識と説明板がありました。

石川啄木の居住跡 たじま 花園町3丁目

石川啄木の居住跡 たじま 花園町3丁目

ちょうど、お昼どきだったので、入って食事をしました。
実は、表の看板を見ると、
高級料理・寿司専門店のような感じで、
値段もGGの昼食にしてはちょっとなあ・・・というレベルだったんだけど、

まあ、取材費込みということで、
せっかくだから、何か食べてみようと入ってみました。

メニューを見ると、
ちゃーんと、ランチメニューがありましたよ、
手ごろなのを注文すると、
出て来たのは、いやはや、本格的な握り寿司セット、
値段もリーズナブル!
大満足でした!

ところで、啄木情報

約100年前の床柱が2本残っているそうです。
店には、啄木の歌などが額に入れて展示されていますが、
残念ながら、啄木直筆のものなどはないようです。

とはいえ、
啄木家族が坐っていたであろう場面を想像しようと思って、
見学を申し出たのですが、
あいにく、その部屋で食事中のグループがあり、
見学はかないませんでした。


啄木忌が行われる、小樽市文学館まで歩き、
文学館を見学します。

例年、この時期に企画展が行われています。
ことしは、
 一原有徳「俳句と山岳小説の世界展」が開かれていました。

残念ながら、GGは一原有徳さんを知らず、
しかし、俳句や山岳写真を見ると、
凄い人なんだと思い知らされました。

小樽文学館、
ずいぶんきれいになりました。

中庭が整備され、
新たに駐車場が整備され、
内装も改装されました。

館内が明るくなって、
ずいぶん暖かい感じも受けました。

・・・なかなか、啄木忌に進みませんね。

少し、長くなったから、後日に譲ってしまいましょう。

  
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2011年04月13日

石川啄木100回忌


歌人・石川啄木が亡くなったのは、
明治45年(1912年)4月13日

ことし、2011年は没後99年、
ちょうど百回忌に当たります。

啄木が息を引き取った時に、立ち会っていたのは、
妻節子と父一禎、友人の若山牧水でした。
娘の京子は、病院の庭で桜の花びらをひろって、遊んでいました。

若山牧水が書いた「石川啄木の臨終」から抜粋。
(漢字は新字体、かなは現代のかなづかいに変更している箇所があります)
馳けつけて見ると、彼は例の如く枯木の枝の様に横たわっていた。午前三時頃から昏睡状態に陥ったので、夜の明けるのを待ち焦れて使いを出したのだが、その頃からどうやら少し落ちついた様ですと細君は語りながら、病人の枕もとに顔を寄せて大きな声で「若山さんがいらっしゃいましたよ」と幾度も幾度も呼んだ。すると彼は私の顔を見詰めて、かすかに笑った。「解っているよ」との意味の微笑であったのだが、あとで思えばそれが彼の最後の笑いであったのだ。その時、側にいま一人若い人が坐っていたが、細君の紹介で金田一京助氏である事を知った。

 そうして三四十分もたつと、急に彼に元気が出て来て、物を言い得る様になった。勿論きれぎれの聞き取りにくいものではあったが意識は極めて明瞭で、四つ五つの事に就いて談話を交わした。私から土岐哀果君に頼み、同君から東雲堂に持ち込んだ彼の歌集の原稿料が昨日届いたというお礼を何より先に言った。そしてその頃私の出そうとしていた雑誌の事に就いてまで話し出した。何しろ昨夜以来初めて言葉を発したといふので細君非常に喜び、金田一氏もこのぶんならば大丈夫だろうからと、丁度出勤時間も来たので私はこれで失礼すると言って帰って行った。細君も初めて枕許を離れた。

 それから幾分もたたなかったろう、彼の容体はまた一変した。話しかけていた唇をそのままに次第に瞳があやしくなって来た。私はあわてて細君を呼んだ。細君と、その時まで私が来て以来次ぎの部屋に退いて出て来なかった彼の老父とが出て来た。私は頼まれて危篤の電報を打ちに郵便局まで走って帰って来てもなおその昏睡は続いていた。細君たちは口うつしに薬を注ぐやら、唇を濡らすやら、名を呼ぶやらしていたが、私はふとその場に彼の長女の(六歳だったとおもう)居ないのに気がついてそれを探しに戸外に出た。そして門ロで桜の落花を拾って遊んでいた後女を抱いて引返した時には、老父と細君とが前後から石川君を抱きかかえて、低いながら声をたてて泣いていた。老父は私を見ると、かたちを改めて、『もう駄目です、臨終の様です』と言った。そして側に在った置時計を手にとって『九時半か』と咳く様に言ったが、まさしく九時三十分であつた。

 私は直ぐかかりつけの医者に走つた。書き落したが同君はその半年ほど前から小石川の久堅町に住んでいた。番地を忘れたが一二度訪ねたのでは直ぐ忘れてしまう位解りにくい家であつた。医者は矢張り久堅町の三浦医院というのであつた。細君たちももう医者を連れて来る必要はあるまいから唯だ知らせてだけ置いてくれといふ意見であったが、医者の方でもとうにその様に承知してゐて、直ぐ診断書(死亡届か)を書いてくれた。

 三四丁離れた医者から帰ると老父と細君とはただ二人きりで手早く部屋を片附けてゐた。何といふあわただしい臨終だらうと、今までとやや場所をかえてひっそりと置き捨てられている彼の遺骸のそばに坐りながら、かぶせてあった毛布を少し引いて彼の顔を見ていると、生前と少しも変らぬ様子にしか感ぜられぬのであった。彼は初め腹膜炎で腹部が非常に膨れてゐた。それが肋膜炎に変ると急にまたげっそりと痩せてしまった。久堅町に来て半年余りというものすっかり床に就いていたので次第に痩せ痩せて、初め枯木々々と呼んでいたのをやがては「枯木の枝」と呼ぶ様になっていたのであった。私は永く彼の顔を見ていられなかった。よく安らかに眠れる如くといふ風のことをいうが、彼の死顔はそんなでなかった。で、直ぐまた死亡の打電のため郵便局に走り、次いで警察署に行き、区役所に行き、葬儀社に行き、買物から自動電話から、何も彼も私一人で片附けてしまった。他に手も無かったのだが、結局そうして動いている方が気軽でもあったのだ。蒸暑い日和で、街路には桜の花が汗ばんで咲き垂れていた。

 その夜の十時頃までは二三の人も来ていたが、それからはまた午前の通り老父と細君と子供と私との四人きりになってしまった。細君もとうから同じ病に冒されていたのだが、その夜は見るも気の毒なほどよく咳いた。で、強いて子供と二人を次ぎの間に寝さして、老父と二人して遺骸に添うて夜を明かした。

(中略)

 仏の枕許に小さく片附けられた小道具などの中に私に眼についてならぬ一箱の薬品があった。死ぬ前前日に石川君を見舞うと、彼は常に増して険しい顔をして私に語った。『若山君、僕はまだ助かる命を金の無いために自ら殺すのだ見給え、そこにある薬がこの二三日来断えているが、この薬を買う金さえあったら僕はいまに直ぐ元気を回復するのだ、現に僕の家には一円二十六銭(或は単に二十六銭であったかとも思う)の金しか無い、しかももう何処からも入って来る見込は無くなっているのだ』と」。

 その薬の名を訊いておいて私はすぐ附近の薬屋に出かけたが、私の財布の中の金でもそれを買うに足りなかった。たしか薬の価は一円六十銭であったとおもう。本郷まで金を借りに行ったが出来なかった。そしてその足で、同じくその日彼から頼まれた歌集(「かなしき玩具」であったろう)原稿を売るために土岐君を芝に訪ねた。土岐君はすぐ日本橋の東雲堂にゆき、それを二十円に代えて石川君の許に届けたのであつた。その金で早速買い求めたのであろう。その何とかいふ薬が、僅かに箱の蓋がとられたばかりで其処の枕許に置かれてあるのであった。葬式はその翌日、土岐君の生家である浅草の等光寺(?)で営まれた。が、私は疲労とそこで種々の人に出逢う苦痛をおもうとのために欠席した。」

この年、啄木に先だって、3月、母が肺結核で亡くなっています。
翌年、妻節子も函館で、やはり結核で亡くなっています。

百回忌というと、盛大に記念祭を行いたいところなのでしょうが、
盛岡の啄木記念館が地震被害のため、一時閉館していた(現在は復旧している)など、
死んだ人より、今生きている人のほうが大切です。

来年あたり、落ち着いて、
復興の確信が持てるようになっていたら、
盛大に没後100年祭を行うのもいいでしょうね。

GGは、毎年「小樽啄木会」で行われる
「ひと月遅れの啄木忌」に参加します。

今年は、5月14日(土)、
記念の講演と、
歌碑前で啄木の歌を吟詠し、
啄木を顕彰します。

啄木の没年である、
明治45年は、7月30日から「大正」に元号が変った年です、

だから、来年2012年は、
「大正100年」に当るわけで、
「明治100年」と言われてから、
もう45年も経っちゃったんだねexclamation×2むかっ(怒り)

  
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2011年01月01日

石川啄木のお正月の歌


新しい年、2011年・平成23年を迎えました。

明けまして おめでとう ございます

2010年は、
もちろん、いいことばっかりではなかったけれど、
たった一夜が明けるだけで新年を迎え、
何かいいことがありそうな気持ちになるのは悪いことじゃないよね。

石川啄木はこんな歌を詠いました。
なんとなく、
今年ことしはよいことあるごとし。
元日ぐわんじつあされて風無かぜなし。
(「悲しき玩具」)
誰もが思い願う新年の気持ちを、
とても素直に表現している歌だと思います。

この歌は、啄木の死直後に刊行された詩集「悲しき玩具」に収められている歌です。

明治44年1月号のいくつかの雑誌にも掲載していることから、
明治44年のお正月を詠っている歌と考えられます。

明治44年のお正月の啄木は東京朝日新聞の社員、
生活は苦しくて、
じっと手を見ることもあったけど、

お正月には、今年こそ何かが変わるだろうと、大きな期待を持ったことでしょう。

しかし、
啄木はこの年2月に腹膜炎で入院し、
朝日新聞に復職することなく、

翌年4月13日の「死」に向かって進んでいくのでした。

『悲しき玩具』に収められているお正月の歌を拾い出してみました。
年明けてゆるめる心!
うつとりと
来し方をすべて忘れしごとし。

昨日まで朝から晩まで張りつめし
あのこころもち
忘れじと思へど。

戸のには羽子はね突く音す。
笑ふ声す。
去年の正月にかへれるごとし。

何となく、
今年はよい事あるごとし。
元日の朝、晴れて風無し。

腹の底より欠伸あくびもよほし
ながながと欠伸してみぬ、
今年の元日。

いつの年も、
似たよな歌を二つ三つ
年賀の文に書いてよこす友。

過ぎゆける一年のつかれしものか、
元日といふに
うとうと眠し。

それとなく、
そのるところ悲しまる、
元日の午後の眠たき心。

いつしかに正月も過ぎて、
わが生活が
またもとの道にはまり来れり。

大晦日には大勢の借金とりに押しかけられ、
やっと迎えた元日の朝、
なんとなく疲れた感じ、
大きな欠伸をしてみて、
去年のいやなことは忘れて、
きっといい年だ! と希望を持ちたいよね。

お屠蘇を呑んで、
おせち料理を食べて、
ニューイヤーマラソンと元日サッカーを観て、

あくせくしない元日ぐらいは、
せめて、
明るい今年を信じましょうよ。晴れ

   
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2010年12月01日

石川啄木『一握の砂』刊行100周年


石川啄木が処女歌集『一握の砂』を発刊したのは、
明治43年(1910年)12月1日のことです。

そうです、
今日は2010年12月1日、
『一握の砂』発刊から、ちょうど100年目に当たる記念の日です。

『一握の砂』に収められている冒頭の歌は

    東海の小島の磯の白砂に
    われ泣きぬれて
    蟹とたはむる

誰もが知っている歌です。

これは、『一握の砂』初版本の表紙です。

石川啄木『一握の砂』初版本 表紙.jpg

残念ながら、ホンモノの初版本ではなく、平成15年に復刻版として発行されたもの。
手垢がつくのがいやだから、
普段は本棚に飾っておくだけ、

中を見たい時は、
別の本を見ることにしています。

でも今日は、特別の日、
記念すべき100周年、
朝から、しみじみと眺めています。


先日、九州・鹿児島県に行ってきたことを報告しましたが、
大分県に住んでいる友人に、
大分には啄木にゆかりの資料があることを話しました。

すると、さっそく、そこへ行って写真をたくさん撮って送ってくれました。

大分県臼杵市に住む文芸結社の男性主宰者が、
こともあろうに、「自分は24歳の女性」と偽って、啄木に歌の添削を頼んだのです。

そして、全くの他人の写真を送って、その美人ぶりで啄木を驚かせ、
啄木の気を引くことに成功します。

間もなく、その嘘はばれるのですが、
およそ100年前に、啄木とこんなやりとりがあった人物の子孫が喫茶店を経営していて、

当時の手紙や写真を公開・展示しているのです。

GGはいずれ行ってみたいなあと思っていたのですが、
送ってくれた写真と、啄木全集に収録されている手紙とを照合してみたら、

全集の誤りがたくさんみつかりました。

全集って、もっと権威あるものだと思っていたのに、
こんなことって、あるんだなあと思い、
他の作品や手紙、日記なんかは間違いがないのかなあと心配になってきました。

GGが心配することでもないんだけど、

『一握の砂』100周年記念日、
啄木に思いを馳せた一日でした。

大分県臼杵市の美人女性?のお話をもっと詳しく・・・

   コチラ

   
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2010年11月05日

北海道立図書館で「石川啄木展」


札幌の隣町、江別市の入口「大麻」に北海道立図書館があります。

11月2日から12月26日まで、
石川啄木の歌集「一握の砂」出版100年にちなんだ、
「石川啄木展」をやっているというので、
行ってみました。

我が家からは、
車で1時間強、

途中の街路樹の紅葉・黄葉のみごとなこと!
晩秋の景色をたのしみながらのドライブ。

江別・大麻周辺は、車でよく通る道で、
いくつかの大学の看板が出ています。

札幌市内から、たくさん移転してきているんですね。

昔からあって、このあたりに似合いそうなのは、
「酪農大学」。

北海道立図書館は、
そんな田園風景の中にありました。

北海道立図書館 石川啄木展 一握の砂発刊100年

初めて入ってみましたが、
けっこう古い建物のようです。

たくさんの人たちが利用していましたが、
図書館独特の、
「シーン」とした雰囲気

この図書館には「北方資料室」があり、
北海道関係の資料が充実しているようです。

その「北方資料室」の前のちょっとしたスペースに「石川啄木展」の資料が並べられていました。

しかし、「一握の砂」初版本の復刻版など10数点ほどの書籍だけで、少しがっかりしました。

さすがに、図書館資料と感心したのは、
「函館市立弥生小学校 校誌」、
こんな資料は、関係者でなければ手に入らない。

「石川啄木展」は、
2010年12月26日までの会期、
もちろん、入場無料、

道立図書館なんて、存在すら知らなかったけど、
ずいぶん貴重な資料がありそうです。
ネットで検索も出来るようになっていて、
道民には貸し出しもしてくれるようだから、

機会があったら利用してみようと思います。

  
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2010年10月04日

啄木を愛した女たち くま文庫


本屋さんに入って、
文庫本の棚を見ていたら、こんな本をみつけました。

啄木を愛した女たち くま文庫
啄木を愛した女たち

株式会社太陽が主催「第30回北海道ノンフィクション賞」の
大賞作品を文庫として出版したもの。

著者はSTVラジオに勤務していた佐々木信恵さん、

今年6月に発刊されたことは知っていて、
ネットで注文しておこうと考えていたんですよ、

本屋の棚でみつけちゃったから、
買っちゃいました。

この文庫、ワンコイン(500円)で買えるから、気楽です。

さて、本の内容ですが、

主として、
釧路時代の小奴梅川操について書いています。

独自の調査や大胆な仮説、など、
なかなか面白い、

さすが、大賞と思って読み進めていると、
啄木の歌として、こんな歌が紹介されています。

   よりそひて
   深夜の雪に立つ
   女の右手のあたたかさかな

あれ、ちょっと調子が悪いなと思って調べてみたら、

   よりそひて
   深夜の雪の中に立つ
   女の右手のあたたかさかな

が正しい歌でした。

そういえば、他にも変なのがあったなと思って、
前の方に戻ってみると、

   (誤)
   わかれて年を重ねて
   年ごとに恋しくなれる
   君にしあるかな

   (正)
   わかれて年を重ねて
   年ごとに恋しくなれる
   君にしあるかな

啄木のことを書いた本で、
肝心の啄木の歌を間違って引用している、

それも1箇所や2か所じゃない、

本とか文書とかって、
こんな間違いをみつけてしまうと、
とたんに、全部の信用が無くなってしまって、
細かいところにばっかり眼が行ってしまうんだよね、

これを大賞に選んだ方たちにも責任はあるし、
これをそのまま雑誌に載せた編集者にも責任があるし、

さらに、
文庫化したときにだって、修正のチャンスはあったのに、
それをしていない。

視点がヘンな方向に行ってしまったけど、

それはそれとして、
気楽に読める、
面白い本ですよ。

啄木を愛した女たち

            
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2010年07月13日

2010年夏に読みたい本


石川啄木の歌集「一握の砂」の中に、
札幌のことを詠ったこんな歌があります。
札幌さつぽろ
かのあきわれのてゆきし
しかしていまてるかなしみ

アカシアのなみきにポプラに
あきかぜ
くがかなしと日記にきのこれり

啄木は明治40年(1907年)、
22歳の時に故郷の岩手県渋民村を離れ、
北海道に渡りました。

当初は函館の文学仲間と文芸誌を発行するなどの活動をしていたのですが、
9月、函館の大火に遭遇して職場を失い、
やむなく、札幌の新聞社に職を求めて北上しました。

最初の歌は、故郷渋民村を離れてせっかく落ち着き先をみつけたと思っていたのに、
予期しない大火に追われ、流浪の旅を余儀なくさせられた悲しみを詠ったものです。
友人宮崎郁雨に宛てた手紙にはこんなふうに書いています。
然し札幌はよい所也、安全に暮すことさへ出来れば五六年は札幌に居たし、札幌は大なる田舎なり、美しき木立の都也、アカシヤの並木に秋風吹き候、水は冷たし、静かにして淋しく、しめやかなる恋の沢山ありさうな処なり、君、朝夕にわが心の火明滅す、飄泊の愁也、男一疋、うた書く事覚えたがために意気地なく相成り候、

札幌をずいぶん気に入ったとみえますが、
飄泊の愁は心の奥底にわだかまっており、消えることはありませんでした。

二番目の歌にも「かなし」という言葉が出てきますが、
こちらは「悲しい」という意味ではなく、
「心が引かれる」、「すばらしい」というような意味です。

そのころの日記には、札幌のことをこんなふうに書いています。
明治40年9月15日(部分)
札幌は大なる田舎なり、木立の都なり、秋風の郷なり、しめやかなる恋の多くありさうなる都なり、路幅広く人少なく、木は茂りて蔭をなし人は皆ゆるやかに歩めり。アカシヤの街樾(※木へんに越、並木の意味)を騒がせ、ポプラの葉を裏返して吹く風の冷たさ、朝顔洗ふ水は身に沁みて寒く口に啣めば甘味なし、札幌は秋意漸く深きなり、
 函館の如く市中を見下す所なければ市の広さなど解らず、程遠からぬ手稲山脈も木立に隠れて見えざれば、空を仰ぐに頭を圧する許り天広し、市の中央を流るゝ小川を創成川といふ、うれしき名なり、札幌は詩人の住むべき地なり、なつかしき地なり静かなる地なり、

この文章は日記の一部分です。
日記ですから、誰かに見せようと考えて書いたものではありませんが、美文ですねえ、

後に、この日記をもとにして、「秋風記」という文を書いています。(部分)
札幌はまことに美しき北の都なり。初めて見たる我が喜びは何にか例へむ。アカシヤの並木を騒がせ、ポプラの葉を裏返して吹く風の冷たさ。札幌は秋風の国なり、木立のまちなり。おほらかに静かにして人の香よりは樹の香こそ勝りたれ。大なる田舎町なり、しめやかなる恋の多くありさうなるさとなり、詩人の住むべき都会なり。此処に住むぺくなりし身の幸を思ひて、予は喜び且つ感謝したり。あはれ万人の命運を司どれる自然の力は、流石に此哀れなる詩人をも捨てざりけらし。
札幌に似合へるものは、幾層の高楼に非ずして幅広き平屋造りの大建物なり、自転車に非ずして人力車なり、朝起きの人にあらずして夜遅く寝る人なり、際立ちて見ゆる海老茶袴えびちやばかまに非ずして、しとやかなる紫の袴なり。不知、北門新報の校正子、色浅黒く肉落ちて、世辞につたなく眼のみ光れる、よく此札幌の風物と調和するや否や。

啄木の日記は、後々書こうとしていた小説や歌の材料をメモ的に書き残した意図があることが分かります。

とまあ、

こうして啄木のことをあれこれ調べていくと、
明治末期から大正時代にかけて活躍した文壇の名士の名前がたくさん出てきます。

与謝野鉄幹・晶子夫妻、森鴎外、若山牧水、夏目漱石・・・・・

啄木はこれらの人々の作品を読み、
感動したり、あるいは
こんなもの、俺なら3日で書けるわ、などとけなしたりしています。

啄木が読んで感動したものなら、
GGも読んでみたいなあと思うのですが、
街の本屋では、こんな古いもの、なかなか手に入りません。

というよりも、
次から次に出版される啄木関係の本を読むだけでも、タイヘンなこと、
時間がいくらあっても足りません。

近ごろは、本をいちいち買うのもたいへんだから、
もっぱら図書館を利用しています。

本屋には無い、ネットでも品切れ、
そんな本が意外に図書館にはあったりしてたいへん重宝しています。

でもね、
歌集・詩集なんかは、
通り一遍読むだけじゃ、充分咀嚼できないんだよね。

やっぱり、
手元に「蔵書」として置いときたいんだよね。

あっちへ行ったり、戻って来たりの啄木研究だけど、
暇をみつけては、コツコツ取り組んでいるんですよ。


当面、
若山牧水の作品を読みたいなと思っています。

若山牧水は啄木の臨終に立ち会った唯一の友人。

代表的な歌はこんな歌。
白鳥(しらとり)は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ
                 (『海の声』明治41)
幾山河越えさり行かば寂しさの終(は)てなむ国ぞ今日も旅ゆく 
                 (『海の声』明治41)
白玉(しらたま)の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけれ
                 (『路上』明治44)

旅を愛し、酒を愛した牧水、
他にも旅の歌や紀行文がたくさん遺されています。

旅の歌「幾山河・・・」は終りのない旅を詠っているのですが、

同じ旅の歌でも、
啄木は、どうにもならない閉塞感にさいなまれるような詠いぶりに対して、

牧水は「寂しさ」と詠ってはいるものの、何かしらおおらかな、
未来が開ける、未来を目指すような歌のような感じがします。

日本の中学・高校の国語の教科書で最も多く取り上げられているのは、
若山牧水の歌だそうです。

二番目に多いのが石川啄木だそうですが、
啄木の歌は、身につまされるような歌から逆に励まされるという利点もあるようだけど、

牧水の歌が取り上げられるのは、
飾らない表現の中に、牧水の人間らしい感受性を感じさせるから、
国語教育にはもってこいなのでしょうか。


この夏、
牧水の歌集を読んでみることにします。

歌集片手に、
幾山河を越えて旅に出るのもサイコーだけどね。



ブログやっててよかった コラブロ

  
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2010年05月12日

有島武郎「生まれいずる悩み」


今日も、先日参加した「啄木忌の集い」の余話。

今年2010年の小樽啄木会主催「啄木忌の集い」では、
小樽啄木会の初代会長であった高田紅果についての講演を聴かせていただきました。

高田紅果は、石川啄木の歌集「一握の砂」の中で、

   あはれかの眉の秀でし少年よ
   弟と呼べば
   はつかに笑みしが

と詠われた少年。

啄木は処女歌集「あこがれ」を出版し、
すでに中央文壇でも一目置かれている存在で、
それを慕って高田紅果が啄木を訪問した時の印象を詠ったものです。

後年、高田紅果は文芸活動や多くの美術展を開催するなど、小樽の文化活動に貢献し、
小樽公園の啄木歌碑の建立にも奔走しました。

高田紅果自身も歌を詠み、絵も描いたようですが、
その作品はほとんど残っていないようです。

絵画仲間に、「木田金次郎」がいました。

木田金次郎は、知る人ぞ知る、
生涯、北海道岩内町を舞台にした絵を描き続けた画家。

有島武郎」の小説「生まれいずる悩み」のモデルになった人物です。

GGは、何年か前に岩内に行く機会があって、
そのとき、何の知識もなしに、
「木田金次郎記念館」を見学しました。

荒々しいタッチの絵に、
何かしら訴えるものを感じました。

印象には残ったものの、
その後は、とんと気にも留めていなかったのですが、
このたび、また、その名前を耳にしたから、

さっそく、
有島武郎の「生まれいずる悩み」を探してみました。

【中古】【古本】小さき者へ 生まれいずる悩み/有島武郎

楽天ブックスに中古品の文庫本が105円。
これじゃあ、郵送代にもならないね、
買おうかと思ったんだけど、

「青空文庫」を探したら、ありました。
ありがたいですね。

さっそく、読みましたよ。

木田少年が、家庭の事情で東京の学校を退学し、岩内に帰る途中、
札幌で開かれていた画展で見た有島の絵に感激し、

おそるおそる有島を訪ねて、自分の絵を見てもらった場面から小説は始まる。

絵を描きたいんだけど、家業の漁師をやらなければならない、
かといって、
自分の絵に絶対の自信があるわけでもない。

描きたい、こんな絵を描きたい・・・
   という「生まれいずる悩み」

有島はこの木田の人生をとおして、
自分の悩みをこの小説に織り込んだのでしょうが、

この小説が発表された後、
木田が「東京へ出て、画業に専念したい」と、
有島に手紙を出したところ、

有島は、
「岩内の自然を相手にして画業に打ち込みなさい」
と助言したそうです。

岩内っていいところですよ。

札幌からなら、中山峠、えぞ富士・羊蹄山、ニセコを通って、
海に向かって行くと、そこが岩内、

小説にも出てくるように、漁業の町です。
山あり、海ありの自然に恵まれたところ。

木田は、有島の助言を得て、
迷うことなく、岩内で画業に専念しました。

その木田金次郎が、
高田紅果の絵をベタホメしている書簡が残っているそうです。


とまあ、

石川啄木と木田金次郎とは直接の関係はないんだけど、
廻り廻って、
思いもかけない人物相関ができました。

そういえば、

啄木も絵を描くことが好きだったようです。
下宿から見た屋並の絵を描いたり、
ノートの表紙にデザイン・カットを描いたりしていました。

一芸に才能のある人って、
多面的な才能があるのでしょうね。

大正7年(1918年)に発表された小説だし、
「生まれいずる悩み」なんて、いかにも難解そうなものかと思ったら、
意外に読みやすい文章でした。

青空文庫はコチラ


  
posted by GG at 17:28 | Comment(0) | TrackBack(0) | 石川啄木
2010年05月09日

2010年第98回小樽啄木会啄木忌の集い


小樽啄木会主催の「ひと月遅れの啄木忌の集い」に参加してきました。

JR電車で、函館本線に乗り、
啄木もおよそ100年前に見た石狩湾の波を見ながら小樽に向かいます。

札幌はあいにくの前、
小樽で、啄木碑があるところまで、かなりの距離を歩く予定だったので、雨はいやだなあと思っていたのですが、

小樽もやっぱり雨でした。

会場の小樽文学館は、
例年、この時期に合わせて、何かしら、企画展を開催してくれます。

今年は「100体の文豪・スター・幕末のサムライたち」がお出迎え、
ユーモアあふれる解説がついた人形が並べられていました。

doll_itosei.jpg

小樽ゆかりの文豪や有名人、

石原裕次郎や水の江滝子もいました。

doll_yujiro.jpg

もちろん、石川啄木もいましたよ。

doll_takuboku.jpg

啄木は、本に足を載せて、寝ていました。
ユーモアあふれる手書きの解説もあるのですが、
なかなか、よく捉えています。


今日の講演は、
啄木の小樽時代の知人「高田紅果」について、
北海道教育大学釧路校、亀井志乃先生、

h22_otarutakuboku.jpg

演題は、
小樽のエナジー・ ―文化活動にかけた夢―

高田紅果は小樽啄木会の初代会長、
小樽公園の啄木歌碑建立に骨を折った人。

啄木が小樽に在住していたころ、
高田紅果は著名な詩人であった石川啄木を思い切って訪ねました。

そのときの印象を詠ったのが「一握の砂」に収められているこの歌です。

   あはれかの眉の秀でし少年よ
   弟と呼べば
   はつかに笑みしが

知る人ぞ知る、著名な岩内町の画家、木田金次郎との交流や、
高田紅果自身も、絵画に関しては相当の力があったことなど、
とても興味深い話を聞かせてもらいました。

講演のあとは、恒例の、歌碑前での啄木歌の朗詠、

小樽公園の歌碑まで雨の中を歩き、
詩吟の先生の指導で、歌碑に刻まれた歌を全員で朗詠しました。

   こころよく
   我にはたらく仕事あれ
   それを仕遂げて死なむと思ふ

h22otaru_kahi.jpg

小樽公園の桜はやっと咲いたばかり、

h22otaru_cherry.jpg

学生と思しき若者たちが、雨の中、
放歌高吟して花見を愉しんでいました。


久しぶりに、いっぱい歩いたから、
今朝、足のハリを感じました、
春だねえ、
冬の運動不足、早く解消しなきゃ・・・。

   
posted by GG at 22:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | 石川啄木
2010年04月21日

石川啄木の直筆日記がみつかった


石川啄木が生前記した日記は、
それ自体が文学作品としても高く評価されています。

現存しているのは

  明治35年(1902年)10月30日(満16歳)から
  明治45年(1912年)2月20日(4月13日歿、26歳)まで。

先日、東京の古書店店主が明治44年の日記の2ページを保有していて、それを函館中央図書館の啄木文庫に譲り渡したというニュースが、

岩手日報や北海道新聞で報道されました。

そのニュースを目にした時、
「欠落している年月日の日記がみつかったのか?」

これはたいへんな発見だと思いました。

現存している日記はところどころの期間が欠けていて、
おそらく、啄木は書き続けていると思うんですよ。

日記の中に、「○○日間、日記を休んだ」と書いていて、
その断りも無く、抜けている部分は、
人為的に破棄されたのではないかな、と思われるわけです。

今回のニュースは、
その部分がみつかったのか?! と驚いたんですよ。

そうじゃなかったんですね。

みつかったのは、
明治44年4月26日と27日分の2日分、2ページ、
市販の当用日記だから、表裏の1枚だと思われます。

関係者がホンモンであることを確認し、
無事に函館の図書館に集約されることになったそうです。

およそ100年前の紙1枚、
どんなルートを辿ったのか、

とにかく、無事に収まるべきところに収まって、
よかった、よかった!

ちなみに、みつかった日記の内容はこんな内容です。
(筑摩書房「石川啄木全集」第6巻・昭和53年発行)
四月二十六日
 夜に、丸谷君から借りた中央公論の藤村の「犠牲」をよんで、しんみりした気持になつた。どの人もどの人も私にはなつかしく思はれる。さうして主人公の嫉妬!
 底の知れない、一生免れることの出来ないやうな悲しみが胸に一杯だつた。

四月二十七日
 昨夜は二時半頃まで眠れなくて弱つた。
 頭の中に大きな問題が一つある。それを考へたくない。何とかしてその昔からの問題、一生つづきさうな問題を忘れたい。――かういふ気分で予はト翁の論文を写したり独逸語をやつたりしてゐる。
 夜にせつ子がチユリツプとフレヂヤの花を買つて来た。
 土岐君へ手紙出した。

この時期、啄木は慢性腹膜炎の治療のため、東京朝日新聞を欠勤していた時期、友人の土岐善麿と新しい雑誌を創刊することを計画していました。
「ト翁」とはトルストイのことです。

病気に臥せりながらも、島崎藤村の小説を読んで、
悲しみで胸を一杯にし、
トルストイの文を書写したり、ドイツ語を勉強したり、
妻節子が買ってきたチューリップやフリージヤの花を愛でたり・・・

病気ながらも、一般的な暮らしをしていたようにも感じられるのですが、

実は、

考へたくないほどの大きな問題が、頭の中を渦巻いていたのです。


この日記、啄木の遺族からいったんは函館図書館に寄託され、
「全集」にも収録されているのですが、

この年の分だけ、再度、遺族の要請で遺族の手に渡っていた間に、
ところどころが切り取られたらしく、
まだ、欠落しているページがあるのだそうです。

活字で読む日記とは違い、直筆の日記からは、感情の起伏までもが伝わってくることでしょう、

散逸している部分が、揃うといいですね。

函館市文学館では、
  2010年4月18日から10月13日までの期間、
  「啄木直筆資料展」が開かれています。 

     
posted by GG at 17:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | 石川啄木
2010年04月13日

4月13日は啄木忌


歌人・詩人・小説家・思想家である石川啄木は、
4月13日に亡くなっています。

明治45年(1912年)、今年2010年の98年前のことです。
2011年は 歿後99年、100回忌を迎えることになります。

このブログで度々紹介しているように、
GGは函館で育ったから、
幼いころから、
函館の立待岬にある“啄木一族の墓”を見ていたし、
ある種、特別の感情で石川啄木の作品を読んでいました。

中学校を卒業して、大阪の、ある特殊な学校に行ったので、
そのころはまた、望郷の念に駆られながら、
啄木作品にのめり込んで行ったのです。

とはいっても、

読むのは「一握の砂」や「悲しき玩具」などで、
小説は未完の尻切れトンボが多いし、
評論などは、難しくて理解できない・・・。

本州をあちこち転勤し、
サラリーマンをリタイヤして北海道に帰ってみると、
啄木に関する情報が、けっこう多いんです。

若かりしころを思い出して、
啄木作品を読み返してみると、
やっぱり、いいんだよねえ。

ヤフオクでみつけた全集を買って、
長詩や評論を読み、

日記を読むあたりになると、

啄木ってこんな人だったんだあ、ちっとも知らなかった!

と思い知らされるわけです。

  借金まみれで、
  オンナ好きで、
  自惚れが強くて、
  仕事は長続きしない・・・

一般的な社会人としては、落第ですね。

啄木に関しては実に多くの人に研究されていて、本もたくさん発行されているのですが、

片っぱしから読んでも、読みきれません。
そして、そんな本を読むたびに、啄木作品からは想像できない、啄木のウラの姿を知らされて、愕然としてしまうのです。

啄木をキライになってしまおうか、
  と思ってしまうこともあるのですが、
冷静に、「一握の砂」などに戻ってみると、

やっぱり、心に沁みるすばらしい歌ばかりなんですよね。

そして、この歌ができたのは、
あんな生活環境があってのことだったんだと、気付かされるわけです。


啄木の臨終に立ち会ったのは、
妻節子、父一禎(いってい)、友人である歌人若山牧水
長女の京子は、散り敷くサクラの花びらを追いかけて、遊んでいたようです。

若山牧水は啄木の歌の魅力をこんなふうに書いています。
どこがいいのか解らないようなところに彼の偉がある。顧みて他をいうといった風の心憎いところもある。それもそう言おうとして言っていないので其間に些の厭味がない。

もう一つ彼の特長として挙げたいのは、彼がものに眼をつけるについての鋭敏さである。平凡な中から、唯だ一つ何かを捉えて、生々とそれを一首の裡に生かしている。描写や叙景に於て、いかにも印象の鮮かな、一首が直ちに絵になり、短篇小説になるようなのが沢山ある。なお、たいしていい歌とは言われぬまでも味のある物の言いぶりをしてあることもその一であろう。
(大正三年一月「創作」)―「石川啄木君の歌」
     筑摩書房石川啄木全集第8巻より引用

今年2010年は啄木の処女歌集「一握の砂」が刊行されて100周年に当たります。


100年経っても、みずみずしく、褪せることのない啄木作品にいっそう魅かれてしまいます。


毎年、小樽啄木会が催す「ひと月遅れの啄木忌」、
小樽の桜の季節、
啄木にちなんだ講演と、啄木ゆかりの地巡り、啄木の歌の朗詠、

今年はどんなお話が聞けるのか、たのしみにしています。
忌日をたのしみにしているってのは、不謹慎なのかな?

  
posted by GG at 15:09 | Comment(0) | TrackBack(0) | 石川啄木
2010年03月03日

現代版『歌よみに与ふる書』


『歌よみに与ふる書』とは、

明治31年(1898年)2月12日から3月4日まで、
当時の新聞「日本」に、10回にわたって連載した子規の短歌論。

写生・写実による現実密着型の生活詠の重視、
万葉集を褒め称え、
古今集・紀貫之をこっぴどく否定しています。

原文は「青空文庫」で読むことが出来ます。
青空文庫「歌よみに与ふる書」

難しい漢字や文語体の文章だから、そっちに気を取られて、なかなか読みにくい文章なんだけど、

いわゆる短詩型文学を愛した正岡子規の心が伝わってきます。


つい最近、こんな本を読みました。


啄木 ―ふるさとの空遠みかも―

著者の「三枝昂之」氏は、宮中歌会始の選者でもある歌人。

この本は、2009年第32回現代短歌大賞を受賞した本です。


啄木の歌がなぜ、多くの人に愛され、
口ずさまれるのか?

啄木の歌が、どんな生活状態の中で詠まれたのか、

日本の歌壇にどんな影響を与えたのか、

など、

とてもわかりやすく解説してくれます。


GGも、啄木の歌は何度も何度も読んでいるんだけど、

なるほど、

啄木の歌に限らず、
文学鑑賞って、こんなふうにすればいいんだexclamation
と、目からウロコ、

名著の一冊、感動しました。


啄木 ―ふるさとの空遠みかも―


この本を読んで感動していたら、偶然に知人からメールが届き、
「作歌へのいざない」という本を紹介してくれました。

「座右の書が一冊増えたことがたまらなくうれしい」
という表現で、ベタ誉め。

まさに、現代版『歌よみに与ふる書』と思い、

さっそく、インターネットで取り寄せました。


作歌へのいざない

GGも短詩型文学に興味があり、
詩がいいのか、短歌、俳句、川柳がいいのか、
よくわからないんだけど、

新聞の投歌欄についつい目が行ってしまいます。

常々、読むだけでなく、自分も詠んでみたいなあ、
と思っていたところだったんだけど、

実はまだツンドク状態、

この本を座右に置いて、

歌詠みの暮らしもいいかなあ、
はたして、どんな歌ができるのでしょうか?

   
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2010年02月20日

2月20日は石川啄木の誕生日


石川啄木は、
明治19年(1886年)2月20日に、
岩手県南岩手郡日戸村(ひのとむら)で生まれました。

124年前のことです。

父は石川一禎(いってい)
母は工藤かつ

夫婦別姓ということになるのですが、

実は、
父一禎は曹洞宗の僧侶で、
表面上、妻帯することを遠慮して、戸籍上の結婚届けを出さず、
夫婦は別戸籍のままにしていたのです。

だから、
啄木が生まれた時の戸籍は、

「工藤かつ 私生児 一(はじめ)」

「石川啄木」という名前はペンネームですが、
生誕時の本名は「工藤一」だったのです。

啄木が小学校2年の秋に、
やっと母親と父親の戸籍が統一され、

その時点から、「石川一」になります。

啄木が生まれたのは、本当は前年(明治18年)の10月だという説もあって、いろいろ研究されているのですが、

その根拠は母親が言った言葉と啄木が書いたメモ書き、

当の啄木は、知人に宛てた手紙で、それを否定していて、
一応2月20日を誕生日とするのが妥当だろうということになっているようです。

この時代の戸籍は少しいい加減なところもあったというか、
親や家の都合で、多少真実とは違う面があったようですね。


この時代の年齢の数え方は数え年、

生まれた年が1歳、
お正月を迎えると1歳増えて2歳になります。

だから、
12月末ごろに生まれた子供は、
生まれて数日で2歳になります。

この時代は旧暦というのもあって、
とにかくややこしいですね。

現在のように、満年齢で数えることを決めた法律が明治35年に公布されているのですが、

GGの子どもの頃も、数え年の習慣は普通に使われていました。

GGの身近な人で、
実際の誕生日は12月なのに、
戸籍上の誕生日は1月2日という人がいます。


啄木が生まれた時、姉が二人いましたが、
長男誕生に父母の喜びようはたいへんなものだったでしょう。

しかし、幼いころは体が弱く、病気がちでした。

そのため、両親は神社に2本の剣を納めて、子どもの健康祈願をしました。
仏教の僧が神社に祈願するというのも、あり? と思うのですが、
両親の子どもに対する愛情でしょうね。

そのときに、父一禎はこんな歌を詠んでいます。

結ぶにもとくにも神やまもるらむいのる宮ゐにかけししめ縄
     ―石川一禎 歌集「みだれ蘆」―

しめ縄を結んでも解いても、神様、どうか我が息子をお守りください、こうして神前にぬかずき、しめ縄をかけさせていただきました。

   
posted by GG at 18:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | 石川啄木
2010年01月20日

熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛・・・


一瞬、文字化け? と思われた方、ご安心ください。

文字化けではありません、
万葉集の中の一首です。

   熟田津尓 船乗世武登 月待者
   潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜

現代の漢字仮名交じり文で書くと、
   熟田津(にぎたづ)船乗(ふなの)りせむと 月待てば
   (しお)もかなひぬ 今は()()でな

熟田津(現在の愛媛県松山)で出航のタイミングをはかっていたら、
月も出て、潮の具合も良くなってきて、
今が出航の絶好のタイミングだ。



ずいぶん、長い間、短歌といえば、
石川啄木の歌と新聞に掲載される投稿歌ぐらいしか読んでいません。

啄木の歌が好きだし、
何度読んでも新鮮な気づきがあります。

そのうちに、
短歌ばかりではなく、詩や小説、評論、日記、書簡、

そして、
啄木研究家の解説などを読んでいて、

ふと、

あまり啄木ばかりに偏り過ぎるのは良くないな、
もっと幅広く、視野を広く、

と思い始めたのです。

そんな思いを持って、図書館に行ってみると、
「万葉集」が目に留まりました。

古今和歌集、新古今和歌集なども和歌のバイブルのようなものだけど、
やっぱり、
和歌の原点は「万葉集」でしょう。

しかし、

「万葉集」に取り組むのは、たいへんなことだと思い知らされました。
4,540首の長歌(ちょうか)、短歌が集められていて、
万葉仮名(まんようがな)で書かれているんですね。

我々が、国語の教科書などで目にする万葉歌は現代用語に書き換えられたものだから、翻訳者によって、多少の違いがあるのではないかと思われます。

万葉集研究家でもないから、もとの仮名がどうというより、
翻訳された歌を鑑賞すればいいのだけれど、

GGの興味は、当て字とも取れる、万葉仮名のほうにも興味が行っちゃって、歌に集中できません。

少しの間、啄木を離れて、
万葉の時代をさまよってみたいと思っています。

さて、問題です。
次の歌はどんな歌でしょうか?

春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山

【ヒント】百人一首にもある歌です。春・夏・天之香来山



 【答】
春過ぎて 夏来たるらし 白妙しろたえの 衣干したり あめ香具山かぐやま

(百人一首は
「春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天の香久山」)


年寄りのてなぐさみと思って興味を持ち始めた短歌の世界、

何ごとも深く究めようとすると、たいへんなことですね。

  
posted by GG at 17:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | 石川啄木
2010年01月01日

何となく 今年はよいことあるごとし


2010年、平成22年、
あけましておめでとうございます。

石川啄木 悲しき玩具 何となく 今年はよい事あるごとし 元日の朝 晴れて風なし


石川啄木の歌を書初めしてみました。

      (なん)となく、
      今年(ことし)はよい(こと)あるごとし。
      元日(ぐわんじつ)(あさ)()れて風無(かぜな)し。


この歌は、啄木の死後刊行された歌集「悲しき玩具」に収められている歌です。

この歌が初めて出てくるのは明治44年1月号の雑誌「創作」です。

風も無く、穏やかに晴れたすがすがしい元日の朝、
今年は何かいいことがありそうだなあ・・・

誰しもがそう思うお正月、
元日の朝の気持ちが伝わってくる歌です。

ところが、
裏返してみると、

去年1年間、ちっともいいことがなかった、
今年こそ、いいことがあってほしいなあ、と考えているんですね。


啄木の明治43年、25歳の年といえば、

明治42年3月から勤め始めた東京朝日新聞で、それなりの仕事を任せられ、忙しく働いていました。

6月に幸徳秋水ら無政府主義者の「大逆事件」が起こり、強い衝撃を受けました。

10月には待望の長男が誕生しますが、わずか24日の命でした。

いくつかの小説や評論を書いていますが、どれもお金にはならず、
借金は増えるばかり、

暮れには、集金の人を犬でも追い払うかのように追い返さざるを得ない状態でした。


しかし、
苦しかった年末も、
一夜明ければ『新年』、

今年こそ、何かよいことがあってほしいなあという願望だったのです。


啄木は「お正月」の歌をたくさん詠んでいますが、
一読して、
この歌がいちばん明るい歌かな、と思います。


さて、2010年、

先の見えにくい閉塞感が続くのでしょうが、

『よい事』

を期待したいですね。

  
posted by GG at 17:15 | Comment(0) | TrackBack(0) | 石川啄木
2009年12月04日

正岡子規 夏目漱石 石川啄木


先日、テレビのチャンネルを何気なく回していたら

  友情が支えた正岡子規の生涯「歴史秘話ヒストリア」
という番組をみつけ、惹きつけられてしまいました。

NHKとしては、「坂の上の雲」のPRも兼ねて作った番組なのでしょう、
偉大な俳人、正岡子規、あまりよく知らなかったけど、
とても興味深い人物になってしまいました。

子規として公開されている写真からは、とても暗い印象でしたが、常におおぜいの友人たちに囲まれていたようです。

よく知られている句は

   柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺
   松山や 秋より高き 天主閣
   春や昔 十五万石の 城下哉
   をとゝひの へちまの水も 取らざりき


愛媛県松山出身で、東京の大学で夏目漱石と知り合い、以後、厚い友情に結ばれていました。

子規は病気に罹り、退学して松山に帰り、
その後恢復して東京で句作活動をしますが、
結核が再発し、明治35年(1902年)9月19日、34歳で永眠します。

えっexclamation&question

どうってこともないのですが、
9月19日はGGの誕生日です。

誕生日が忌日というのはうれしくもありませんが、
正岡子規の忌日は「糸瓜忌」(へちまき)というそうです。

子規の辞世の句にちなんだものです。

   糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
   痰一斗糸瓜の水も間にあはず
   をとゝひのへちまの水も取らざりき


子規は短歌を多くは詠んでいませんが、こんな歌があります。
くれなゐの 二尺伸びたる 薔薇の芽の 針やはらかに 春雨のふる
松の葉の 葉毎に結ぶ 白露の 置きてはこぼれ こぼれては置く
いちはつの 花咲きいでて 我目には 今年ばかりの 春行かんとす


夏目漱石が松山の学校の教師として赴任したころは、病気療養中の子規が漱石の部屋に泊まり込んでいたそうです。

さて、GGとしては、
石川啄木と正岡子規との関係に興味があります。

残念ながら、
石川啄木と正岡子規との接点はありませんでした。

子規が亡くなった明治35年(1902年)は、
17歳の啄木が中学校を退学し、文学で身を立てるべく上京した年、
11月2日のことですから、すでに子規はこの世の人ではありませんでした。

啄木の日記や書簡などにも子規の名前は登場しません。
詩や小説、短歌にしか興味が無かったのでしょうか。
「根岸短歌会」についての記述が書簡の中に見られますが、あまり興味がなかったようです。

そういえば、啄木が俳句を詠んだという記録も無いし、その句もみかけません。
ただ、蕪村の句には感銘を受けたようで、友人への書簡にはたびたび「蕪村の句を読め」と書いています。


啄木は、子規の親友であった夏目漱石に対しては、強い興味を持ったようです。
子規の没後、4年後の明治39年(1906年)7月に書いた日記「八十日間の記」にこんな記述があります。

(前略)
 六月十日から田植が初まるので、二週間の農繁休業になつた。予は飄然として一人上京して、千駄ヶ谷の新詩社に十日間遊んで帰つた。
 予にして若し一家を東京に移さんとすれば、必ずしも至難の事ではない。予は上京の初め、都合によつたらさうしやうと考へて行つた。無論出来る。しかし予の感ずる処では、東京は決して予の如き人間の生活に適した所ではない、本を多く読む便利の多い外に、何も利益はない。精神の死ぬ墓は常に都会だ。矢張予はまだまだ田舎に居て、大革命の計画を充分に準備する方が可のだ。
 滞京中感じた事は沢山ある。逢ふた人も沢山ある。然し豪い人は矢張無いものだ。予は常にこれに失望せざるを得ない。
 敬すべき上田敏氏は、今後文壇の各方面に活動するといふて大気焔であつた。戯曲をもやるといふ。
 日英米詩人の同盟した野口米次郎の「あやめ会」は『あやめ第一巻』を出した。上田氏と薄田氏の詩の外に邦人のでは読むに足るものがない。岩野や前田や児玉など、よく恥かしくもなくアンナ作を出したものだ。薄田泣菫氏の『白羊宮』はさすがに巧いものだ。目下の処どうしても日本の第一人である。然し今後はどうか知らぬ。大きい思想がないらしい。新詩社で合評会をひらいた時は、予は一言も口を出さなかつた。これは自分乍ら賢いやり方であつたと思ふ。
 近刊の小説類も大抵読んだ。夏目漱石、島崎藤村二氏だけ、学殖ある新作家だから注目に値する。アトは皆駄目。夏目氏は驚くべき文才を持つて居る。しかし「偉大」がない。島崎氏も充分望みがある。「破戒」は確かに群を抜いて居る。しかし天才ではない。革命健児ではない。兎に角仲々盛んになつた。が然し……然し、……矢張自分の想像して居たのが間違つては居なかつた。『これから自分も愈々小説を書くのだ。』といふ決心が、帰郷の際唯一の予のお土産であつた。予は決して、田舎に居るからといつて、頭が鈍くなつては居ない。周囲から刺戟をうけて進む手合とは少々格が違ふ。自然と人生とが目の前にある限り、自分が生きて居る限り、予は矢張り常に生きて居るのだ。
 詩の方は当分少し休んで見やうかとも思ふ。無論やめるの何のといふのではない。興があれば、何日でも書くが、然し休んで居たからと云つて時勢におくれる気づかひは少しも無いと思ふ。凡人や半天才がいくらあせつても大丈夫だ。馬鹿にすれば随分馬鹿にするによい世の中だ。(後略)

 啄木は小学校の代用教員であり、春の農繁期を利用しての上京でしたが、自信満々、自惚れとも言えるほどの書きぶりです。

また、明治41年(1908年)、北海道流浪の旅に終止符を打ち、上京した時には、やはり漱石の小説を読み、日記にこう記しています。
夏目の“虞美人草”なら一ヶ月で書けるが、西鶴の文を言文一致で行く筆は仲々無い。

啄木は上京してすぐに、従来の詩作から小説に転じていますが、日記に強気な言を書いている割に、小説を書くことに苦心していた時期です。

その後、夏目漱石とは二葉亭四迷全集の編集に関わったことから面会の機会を得ることが出来ました。

啄木は漱石について、否定的というより「この程度が評価されるなら、自分にも書けるぞ」という自信を確かめていたのでしょう。

啄木は夏目漱石を強く意識したようで、
明治43年の日記「43年中 重要記事」の中に、次のように記しています。
(前略)
 文学的交友に於ては、予はこの年も前年と同じく殆ど孤立の地位を守りたり。一はその必要を感ぜざりしにより、一は時間に乏しかりしによる。森氏には一度電車にて会ひたるのみ、与謝野氏をば二度訪問したるのみなりき。以て一斑を知るべし。時々訪ね呉れたる人に木下杢太郎君あり。夏目氏を知りたると、二葉亭全集の事を以て内田貢氏としばしば会見したるとは記すべし
(後略)

啄木が病気になってからは、漱石から見舞金を二度受け取り、啄木の葬儀には漱石も参列しています。

アレアレ、
正岡子規がとんでもない方向に行ってしまいました。

  
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2009年12月03日

石川啄木の筆文字


石川啄木に関する資料のアルバムを見ています。

幼い時の写真や住んでいたところ、刊行された歌集や詩集、
当人のナマ原稿や手紙など、
たくさん残されています。

16歳の頃に書いた筆文字があります。
みごとなものです。

葉書や手紙もたくさん残っていますが、
1枚の葉書、限られたスペースに実に自由に伸び伸びと書いている文字、実に魅力的です。

次第に筆を使わず、インクに変っていきますが、
ペン字は、特別惹きつけられるほどでもないかな、と思っています。

啄木の処女歌集「一握の砂」はペン字で書かれていますが、
啄木の筆跡は残っていないようです。

死後発刊された「悲しき玩具」は直筆ノートがあり、
ペンで書かれていて、推敲の跡も窺えるものです。

残っている書簡などは、受け取った側が大切に保存していて、
それを図書館などに寄贈したもの。

啄木が受け取った書簡類はほとんどが残っていないようです。
もし、啄木がきちんと保存してくれていたら、
貴重な資料になったと思われます。


啄木の歌碑は全国に数多く建立されていますが、
啄木の筆跡を忠実に拾い集めて、石に彫っているものがあります。

また、書家が書いているもの、
活字のもの、
などさまざまです。

そんな写真を見ていたら、
筆を持ってみたいと思い、
書いてみたのがこれ、

6sunayamano.gif304siokaworu.gif315hakodateno.gif

啄木の筆跡を真似て書いたりしてみたけど、
あんなふうに自由闊達な筆遣いは真似できません。

しかたなく、自分流に書いてみたものです。

釧路には百人一首ならぬ、「一人百首」の啄木カルタがあります。
木札に筆文字で歌の下の句が書かれています。
釧路在住の書家が書いた、みごとな文字ですが、下の句だけなので、
上の句からすべてを書いたものを作りたかったのです。

う〜ん、

未完成ですね。

「一握の砂」551首を、ある程度の完成度に仕上げるのは
たいへんなことですね。

でも、やってみようかなと思っているんです。

   
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2009年10月03日

函館はすばらしい街(二)---啄木ゆかりの地巡り


函館旅行二日目は、おもに、啄木ゆかりの地を巡りました。

前日宿泊した湯の川温泉の旅館を出て、札幌に向かう2人を函館駅に送り届け、

まずは西部地区に向かいます。
西部地区は函館山に向かって、正面から右側の地区、
函館は何度か大火に見舞われ、その都度、街の大半を焼き尽くしていますが、
西部地区は大火から免れ、
歴史的建造物がたくさん残っている街並みです。

赤レンガの金森倉庫などがあるベイエリアは意外に観光客が少なく、
静かな雰囲気でした。

赤い靴少女像にご対面です。
西波止場美術館前の広場に一人静かに立っていました。

函館 西波止場美術館前 赤い靴少女像

2009年8月7日に除幕されたばかり、全国6基目のきみちゃん像です。
函館出身でローマ在住の彫刻家、小寺真知子さんの作品、
靴は赤く塗られ、像は銅の色に輝いています。

赤い靴の「きみちゃん」と函館との関係、
石川啄木との関係などについては、

コチラ⇒赤い靴の女の子は異人さんに連れられて行かなかった

西波止場を散策し、
ここから歩いてすぐのところにある「函館市文学館」に行きました。

石川啄木関連の資料を豊富に持っている文学館です。
ちょうど「啄木直筆資料展」が開催されていました。

館内撮影禁止なので、鎮座している啄木像や、
貴重な直筆資料の数々は目に焼き付けるしかありません。

日記、書簡、原稿などなど、
活字で読んだことがある歌や文章が並べられています。

文学館の建物自体も、大正10年(1921)年に第一銀行函館支店として建設されたもので煉瓦及鉄筋コンクリ−ト造3階建の歴史的建造物です。

館内撮影禁止だったから、うっかり、外観も写真に撮りませんでした。

文学館を出て、港沿いに車を走らせ、
子どものころ、岸壁で魚釣りをしたあたりに行ってみましたが、
どこも「この先、関係者以外立ち入り禁止」です。

市電の終点「函館ドック前」は「弁天」と呼ばれていた地域、
ここから山に向かって坂道を昇ると、外人墓地があります。

外人墓地の向かいには「地蔵寺」があり、
ここには「万平塚」(まんぺいづか)があります。

函館市 地蔵寺 万平塚

解説板にはこのように書かれています。
 石川啄木の歌に、「むやむやと 口の中にてたふとげの事を呟く 乞食もありき」というのがあるが、この乞食こそ明治から大正にかけての函館の名物男で名を万平といった。
 ユーモアがあり、人から恵んでもらわない気骨のある乞食で、毎朝ゴミ箱を探し歩き、その家の人物評を日記風に書き残した。
 一例を上げると「11月1日(明治39年)今朝好天気なれば先以て山田邦彦君(函館区長)の芥箱を探しにゆく。流石に山田君の夫人は、文明の空気を吸われつつあり、豚の脂身一塊、大根の皮と共に捨てられたるは、西洋料理の稽古最中と覚ゆ・・・」などとある。
 この塚は、大阪から所用で来た鉄鋼場主「藤岡惣兵衛」が、万平にタバコの火を借りようとした際「帽子も取らずに」となじられたが、その人柄に感じ入り、大正4(1915)年万平の死後、供養塔として函館の知人の協力を得て建てたものである。     函館市

万平塚に手を合わせ、函館山のふもとの道を走ると、
啄木が代用教員を務め、あこがれの女性「橘智恵子」に出会った、
「弥生小学校」があります。

函館 弥生小学校 弥生尋常小学校

この建物は昭和13年に竣工したもので、もちろん啄木の時代のものではありません。
当時としては珍しい鉄筋コンクリート造りの堅牢な建築物ですが、
70年以上も経過して老朽化と地域の過疎化が進み、廃校となることが決まっています。

ただ、歴史的建造物として何らかの形での存続を熱望する市民もいて、さまざまな議論が行われています。

校歌を刻んだモニュメントが歴史を感じさせるうっそうと茂った樹の下に佇んでいました。

函館 弥生小学校 校歌

元町周辺の教会群、公会堂周辺は、ずいぶんきれいに整備されました。
このあたりの坂、
坂の上に立って、港を眺め、周辺の建物を見るだけで、
港町らしい風情があります。

今日はそこを通り過ぎて、
函館公園に向かいます。

この公園もすばらしいですね。

公園の広場の函館山方面に啄木の歌碑があります。

函館公園の啄木歌碑 

碑に刻まれている歌は、

  函館の青柳町こそかなしけれ
  友の恋歌
  矢ぐるまの花

解説板には、
「全国に数多く点在する啄木歌碑の中でも一番美しいできばえといわれるこの歌碑・・・」と書かれているのですが、

刻まれた文字が風化によって、読み取りにくくなってしまいました。

函館公園の正面出入口を出て左手に向かって歩くと、200メートルほどのところに、「啄木居住地跡」があります。

函館 青柳町 石川啄木 居住地跡

この小路の奥の借家に家族を呼び寄せて住み、
文学仲間と恋を語り、人生を語り、文学を語り合った場所です。

函館の大火なかりせば、落ち着いた生活をもう少し長く、しあわせな生活が出来たのでしょうが。

函館公園正面からまっすぐ海に向かって進むと、そこは大森浜から続く津軽海峡に面した海、

「東海歌」の原風景だという説もある「住吉漁港」があります。
もちろん、啄木の時代とは違うのでしょうが、
うーん、
ここが「東海の・・・」の歌の原風景と言うには、
ちょっと無理があるんじゃないかな、

たしかに、
啄木の居宅からもっとも近いところにある海だから、
啄木は頻繁に来たと思うけど、

ここで「東海の・・・」を詠ったとは思えないなあ。


函館山の左端にある立待岬(たちまちみさき)に啄木一族の墓があります。
案内標識に導かれて狭い急坂を進むと、「啄木一族の墓」の標識があります。

車を1台停めるスペースがあったので、停めさせてもらいました。
休日などは、込み合うだろうから大迷惑な行為でしょう。
その先、すぐ近くの岬の突端には広い駐車場があるから、そこに停めて、歩いて引き返すのがいいでしょう。

函館 立待岬 石川啄木 啄木一族の墓

この墓には啄木をはじめ、妻節子、3人の子ども、両親が納められ、津軽海峡を眺めながら静かに眠っています。

墓の表面には「東海の小島の磯の白砂に・・・」が刻まれていて、
青柳町の啄木居住地を向いているそうです。

「千の風になって」の作曲者である新井満さんは、
この墓にお参りし、啄木と言葉を交わしたと著書に書いていましたが、
いかにも啄木が語りかけてきそうな、
そんな雰囲気があるお墓です。

函館 立待岬 啄木一族の墓 住吉漁港 大森浜の海岸を望む


啄木一族の墓のすぐ隣に、「宮崎家一族の奥城」があります。
 (「奥城」はお墓のこと。)

石川啄木一家を物心両面で支え続けた宮崎郁雨もここに眠っています。
宮崎郁雨は、啄木の妻節子の妹と結婚しましたから、啄木とは義理の兄弟に当たりますが、自らも歌人であり、啄木をたたえる歌や偲ぶ歌なども数多く遺しています。

一族の墓の隣に歌碑があります。

函館 立待岬 石川啄木一族の墓 宮崎郁雨 宮崎家一族の墓 宮崎郁雨の歌碑 砂山影二の歌碑

  蹣跚と
  夜道をたどる
  淋しさよ
  酒はひとりし
  飲むものならず

(蹣跚=まんさん よろめき歩くさま、酔歩)

この歌碑の隣に「砂山影二」の歌碑があります。

  わがいのち
  この海峡の浪の間に
  消ゆる日を想ふ
  ――岬に立ちて

立待岬はかつて、自殺の名所と言われた断崖絶壁ですが、
砂山影二は立待岬に立って、死への願望と闘っていたのでしょうか。

解説板の内容です。
宮崎郁雨と砂山影二の歌碑

●宮崎郁雨の歌碑
 宮崎郁雨(本名、大四郎)は明治18(1885)年に新潟県で生まれた・その後一家は来函し、父親は味噌製造業を営んだ。明治39年に文芸結社苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)ができると、その同人となった。翌40年に啄木が来函してから、郁雨は物心両面にわたって暖かい援助を続け、42年、郁雨は啄木の妻節子の妹ふき子と結婚した。
 郁雨は家業を継ぐかたわら、短歌づくりを続け、昭和37年に亡くなった。この歌は没後刊行された「郁雨歌集」の中の「自問自答」に収録されているもので、歌碑は昭和43(1968)年に函館図書裡会が建立した。

●砂山影二の歌碑
 砂山影二(本名中野寅雄)は、大正7(1918)年に函館で創刊された文芸誌「銀の壺」の同人として活躍した。
石川啄木を深く崇拝し、その短歌に傾倒していたので、彼の作品には啄木の影響がみられる。人生に懐疑的であった影二は、大正10年、青函連絡船から身を投じ、弱冠20歳の命を絶った。
 この歌は「坊ちゃんの歌集」の前文にあるもので、歌碑は昭和43(1968)年、海峡評論社と函館図書裡会が建立した。    函館市

砂山影二の名前は、GGは初めて聞きました。
大正10年で20歳だから、明治35年ごろの生まれ、
啄木が亡くなった明治45年、影二は10歳。

20歳で亡くなるまでに、熱心な文芸活動をしたのでしょうが、
ちょっと早まったね、
もう一皮むけて、大人になってから死んでもよかったのに、と思います。

砂山影二のことをいろいろ調べてみたんだけど、
なかなかみつかりませんでした。

海峡評論社と函館図書裡会が建立したこの歌碑、
若者の切ない想いが伝わってくるんだけど、

この歌碑を建立して満足しているんじゃなくて、
この若者の功績を顕彰してほしいんだよね。

今の状態だと、
啄木かぶれの、
ただ暗いだけの青年でしかない。

影二の他の作品を読んでみたいね。


立待岬の突端近くに、
与謝野寛・晶子夫妻の歌碑があります。

函館 立待岬 与謝野寛・晶子夫妻の歌碑

碑に刻まれている歌
  濱菊を郁雨が引きて根に添ふる立待岬の岩かげの土 寛
  啄木の草稿岡田先生の顔も忘れじはこだてのこと  晶子


「岡田先生」とは函館図書館の創設者であり初代館長であった岡田健蔵氏のこと、
岡田健蔵は啄木資料の保存に尽力した。

昭和31年、岡田健蔵の13回忌に当たり、与謝野寛・晶子夫妻が昭和6年6月6日に来函した際に詠草した歌のなかから、この歌を選んで碑に刻んで、岡田氏を顕彰したもの。

郁雨や岡田先生という名前を通して、与謝野夫妻の啄木への慕情が伝わってくるような歌です。


立待岬にはライオンズクラブが浜薔薇の花壇を作ってくれました。

津軽海峡の海の色、
遠くに見える下北半島・津軽半島の陰、
ゆるやかに弧を描く大森浜の海岸線、

美しい空と雲、

函館の景色をしばしながめて、
少しは啄木の心に近づいたかな?


岬から一方通行になっている帰り道に
碧血碑」の案内看板があります。

案内に沿って、車を停め、うっそうとした林に入って行きます。
車が通る道から200メートルほど、林の中を歩き、
やはり、うっそうとした木々に囲まれて、碧血碑はありました。

函館 箱館戦争 五稜郭戦争 旧幕府軍 碧血碑

碧血碑は五稜郭戦争で敗れ去った土方歳三はじめ、旧幕府軍の死者を弔うために篤志家が建てたもの。
賊軍を弔うことに、当時は抵抗があり、ひっそりと目立たない場所を選んで建てられたことがよく理解できます。

モニュメントの立派さに引き換え、
この場所は、誰も寄り付かないような、うっそうたる林の中です。

霊気が漂うような感じはありませんが、
(もともと霊感は持ち合わせない)
あまり長居はしたくない場所ですね。

この碧血碑の左にある松の木の更に左に小さな目立たない碑があります。

啄木が詠んだ歌は、この小さな碑に刻まれた漢詩のことです。

   函館の臥牛がぎゅうの山の半腹はんぷく
   碑の漢詩からうた
   なかば忘れぬ


次の目的地は大森浜にある啄木浪漫館

函館 啄木浪漫館

土方歳三と啄木の資料が展示されています。

2階が啄木館。
劇場があって、啄木の人形が国語の授業をしてくれます。
15分ほどの授業でしたが、なかなか面白い趣向でした。

外には啄木小公園があります。

大森浜の岸に打ち寄せる波の音を聞きながら、
ベンチに腰掛け、
啄木の想いをあれこれと想像します。

西條八十の啄木に捧げる詩碑がありました。

函館 大森浜海岸 啄木小公園 西條八十の詩碑

  眠れる君に捧ぐべき
  矢車草の花もなく
  ひとり佇む五月寒
  立待岬の波静か
  おもひでの砂ただひかる
    捧啄木   西條八十

函館 啄木小公園の啄木像と歌碑

啄木にはとてもふさわしいシチュエーションですね。
この啄木像の作者は札幌出身の彫刻家、本郷新。
札幌大通公園の銅像も本郷新によるものです。

こちらは、啄木浪漫館の前にあるオブジェ、

函館 啄木浪漫館前のオブジェ あこがれ 
詩集「あこがれ」と歌集「悲しき玩具」の本です。

見開きになっているのは歌集「一握の砂」、刻まれている歌は

   砂山の
   砂に腹這ひ
   初恋の
   いたみを遠く
   おもひ出づる日
 
啄木浪漫館建設を記念して 平成11年12月3日と記されていました。

一日じゅう、
ずいぶん歩きまわりました。
函館を愛した啄木の心に少しは近づけたかなあ?

啄木小公園の写真は、夕方になると逆光で啄木像も函館山も真っ暗になってしまうので、
翌朝、朝日を浴びる時間に撮影したものです。

大森浜も実にきれいな砂と波でした。

函館 大森浜  


だいぶ、長い記事になってしまいました。
最後まで目を通していただき、ありがとうございます

明日は、啄木以外の函館の魅力について、
写真もたっぷり掲載します。


  
posted by GG at 18:53 | Comment(2) | TrackBack(0) | 石川啄木
2009年08月19日

函館に全国6基目の「赤い靴」像


2009年は北海道函館の開港150周年記念の年、

その記念行事のひとつとして、
函館港西波止場の美術館前広場に

赤い靴少女像が建立されました。

函館出身でイタリア在住の彫刻家、小寺真知子さんに制作を依頼したもので、

像は台座を含め縦1・6メートルのブロンズ立像。
全体は黄土色で、靴の部分が赤い。

除幕式が行なわれた2009年8月7日には制作者の小寺さんも出席しました。

童謡赤い靴は野口雨情作詞、本居長世作曲の誰もが
知っている悲しげな歌です。

モデルとなった赤い靴をはいた女の子は「きみちゃん」、
静岡から母親と共に函館に渡り、東京の孤女園で、
幼くして亡くなるのですが、

歌にあるように、異人さんに連れられて行ってはいなかったのでした。

きみちゃんの詳しい悲話はこちらをごらんください

きみちゃんや両親の思いを慰めようと、
全国にはすでに5基の銅像が建立されており、
函館の像は6基目となりました。

 横浜のメリケン波止場・・・横浜の波止場から船に乗って
 静岡市日本平・・・きみちゃんの生まれ故郷
 東京麻布十番・・・きみちゃん終焉の地
 北海道留寿都村・・・両親が開拓に入った
 北海道小樽市・・・両親が居住、野口雨情と親交があった
 北海道函館市・・・きみちゃんと母親が北海道の地を踏んだ

横浜の赤い靴像は、
この悲話とは結びついておらず、
童謡「赤い靴」の顕彰と「横浜の波止場」PRが目的です。

小樽の像は親子像で、
きみちゃんが両親に対面できたところをイメージしています。

野口雨情が作詞したとき、
果たしてどの程度、きみちゃんを意識していたのか、
きみちゃんをモデルとして考えたのか、
確かめる術もないのですが、

赤い靴の像を見るとき、
この悲話を思い起こすと、
きっと、ジ〜ンとくるのです。

今度、函館に行ったとき、必ず見なけりゃならないところです。

GGもほんのわずか、拝観料のつもりで募金しました。
ブロンズだから、風雨にさらされて、色が変わっちゃうんでしょうね、

赤い靴がいつまでも色が落ちないように手入れしてほしいな。

はこだて赤い靴の会ホームページ

石川啄木ファンのGGは、
啄木を調べていたら、赤い靴悲話に遭遇したのですが、
以来、きみちゃん悲話のファンにもなりました。

実は、啄木側から見た野口雨情の人間性は好きになれないのですが、
雨情の数々の作品はすばらしいですね。

芸術家って、作品から感ずる人間像を想像だけしておいて、
あまり深く研究しないほうがいいのかなと思ったりもします。

posted by GG at 23:09 | Comment(0) | TrackBack(0) | 石川啄木
2009年06月08日

赤い靴の像 函館に建立 全国で6基目


今年、開港150年を迎える函館市、
かねてから、赤い靴の像を建立する計画が進められていましたが、

8月7日(金)西波止場美術館前の広場に設置することが決まりました。

童謡「赤いくつ」は野口雨情作詞、本居長世作曲、
大正10年(1921年)に発表された歌です。

赤い靴を履いていた女の子のモデルは「岩崎きみ」とされ、
静岡県から函館に母とともに渡り、
事情があって函館の宣教師に預けられました。

母はきみちゃんが元気に暮らし、きっと宣教師とともにアメリカに渡ったことだろうと想像しながら先立ってしまうのですが、

実は、きみちゃんは病気にかかり、
本国に戻った宣教師とも別れ、
東京の孤女院に預けられ、そこで、9歳の幼い命を落としていたのでした。

もっと詳しく・・・
「きみちゃん悲話」の詳細

函館がこの悲しい別れのスタート、
その霊を慰めようと、

「はこだて赤い靴の会」が中心になって、
銅像建立の準備を進めてきました。

やっと、像設置のめどが立ったようだけど、
まだ資金が少しばかり足りないのだそうです。

像の販売、
企業・団体の寄附を募っています。
(碑に刻銘)

個人の寄附は一口 1,000 円

「はこだて赤い靴の会」ホームページ

GGもいつか函館に行く機会があったら、拝観させてもらうつもり、
その拝観料として、1000円振り込んでおきました。

赤い靴の像建立計画は、札幌や青森にもあるようです。

   るんるん赤い靴はいてた 女の子
    異人さんに連れられて 行っちゃった

    ・・・・・
posted by GG at 17:46 | Comment(0) | TrackBack(0) | 石川啄木
2009年05月11日

小樽啄木会主催 第97回啄木忌の集い


歌人石川啄木が亡くなったのは、
明治45年(1912年)4月13日、啄木は26歳の若さでした。

小樽啄木会では、毎年ひと月遅れの啄木忌行事を行なっています。

今年は97回目、小樽文学館に70名ほどの啄木ファンが集まりました。

今年の講演は北大経済学部長、釧路公立大学学長を務めた荒又重雄氏、

「啄木短歌を英訳してみて」

2009年 小樽啄木会 啄木忌 講演

ご専門とは畑違いなんだけど、釧路で観光資源としての啄木歌碑を見ているうち、外国人にも理解してもらえるようにと思い、自分で始めちゃったそうです。

石川啄木の歌は、世界各国の言語に翻訳されて本も出版されているのですが、歌の解釈によって訳がまったく違ってくるわけです。

たとえば、啄木の有名な歌、

   東海の小島の磯の白砂に
   われ泣きぬれて
   蟹とたはむる

の「東海」、はたして The eastern sea でいいのか?
「泣き」は cry が妥当なのか。

もともとこの歌は歌集「一握の砂」の冒頭歌でもあり、歌の解釈にさまざまな議論があります。

まず自分の解釈を確立し、英文に置き換えていきます。
出来れば、日本語の 五・七・五・七・七 の韻を生かした文章にしたいなどと思い始めたら、もう、たいへんな難問になってしまいます。

訳された歌を数篇紹介してくれましたが、
大変な作業ですね、

しかし、先生は実にたのしそうに話すんですよ。

GGに外国語能力があったら、こんな研究もいいなあと思っちゃいました。

  ・・・無理、無理!

たのしい講演が終り、参加者は水天宮の啄木歌碑に移動します。
例年、啄木歌碑の前で、歌を朗詠します。

詩吟の先生の指導で、
今年は水天宮の歌碑の歌を朗詠しました。

   かなしきは小樽の町よ
   歌ふことなき人人の
   声の荒さよ

小樽水天宮境内の啄木歌碑 朗詠 小樽啄木会 かなしきは小樽の町よ

啄木会の時期、水天宮のサクラはちょうど満開なのだそうですが、今年はすでに散っていました。

丘の上、小樽港を見渡せる絶好のシチュエーション、
声を張り上げて詩を朗詠し、
晴れやかな気分になりました。

この声が啄木に届き、なぐさめになったでしょうか。

会はここで解散、

車を預けた文学館に戻ると、後藤伸行さんの切り絵展のポスターが目につきました。
さっそく入ってみると、今回は、啄木の歌にちなんだ切り絵が数十枚展示されていました。

この方の切り絵はみごとなもので、釧路で絵葉書を買いました。

啄木の歌をテーマにした作品も数多く手がけており、これがまた、詩情を誘う切り絵なんですよ。

後藤伸行さんの切り絵展 小樽文学館

文学館の事務所で「啄木の便箋」を買いました。
便箋の一ページごとに啄木関連の切り絵が印刷されています。


小樽駅前の三角市場に寄って、
生ウニ、ホッケの開き、生ホタテを買い求めました。

ウニは5月10日が解禁日、
この日のウニはロシア産、それでも札幌のスーパーで売っているモノとはモノが違うね、


ドライブ、海を眺め、歌碑を探し、講演を聞き、歌を吟詠し、切り絵を鑑賞し、おいしい海産物を買い、・・・

充実の一日でした。

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posted by GG at 23:22 | Comment(0) | TrackBack(0) | 石川啄木
2009年05月10日

余市町モイレ山の石川啄木歌碑


歌人石川啄木が亡くなったのは、
明治45年(1912年)4月13日、啄木は26歳の若さでした。

小樽啄木会では、毎年ひと月遅れの啄木忌行事を行なっています。

今年は97回目、
たのしみにしていた催しなので、イソイソと行ってきました。

せっかく小樽に行くんだから、ついでに寄りたいところもあり、、
札幌・南区の自宅から定山渓を抜けて朝里峠を越えて小樽に向かいます。

まずは定山渓、
川に泳がせた鯉のぼり、
テレビで紹介されていたのですが、5月10日で終わりだそうです。

札幌市南区 定山渓 鯉のぼり

ひらひらと舞う鯉のぼり、きれいでしたが、
群馬県館林市の鯉のぼりは、これとほぼ同じ仕様ですが、
もっとスケールが大きいですね。

定山渓から小樽・朝里峠に向かって車を走らせます。
道路にはもちろん雪はありませんが、路側にはまだたくさん残っていました。

国際スキー場の営業は終っていましたが、上のほうはまだ滑れるぐらいに雪がありました。

朝里峠のダムを見ながら快適なドライブ、

今日のもう一つの目的は、余市の啄木歌碑を見ること、

小樽を通り過ぎて海岸線を走ります。
風もなく、波もなく、美しい海岸線が続きます。

小樽 余市の海岸 モイレ山

目的の歌碑は余市のモイレ山頂上にあります。
山と言っても、海抜数十メートルの山です。
入口がわかりにくかったんだけど、なんとか探しました。

余市町 モイレ山 啄木歌碑

刻まれている歌は

   神無月
   にびいろの雲の下ひくく
   白額浮かぶ後志の山
             啄木

「にびいろ」は鈍い色、ネズミ色をいいます。

後志は「しりべし」と読み、小樽から積丹半島を示す地域の呼び名、
ドサンコはみんなピンとくるんだけど、今でも天気予報などで、
「後志地方は晴れのち曇り、波が高くなります」とフツーに使われています。

神無月は旧暦10月、

   冬を間近に控えた秋、11月、
   すでに後志の山々には冠雪があり、
   ねずみ色に曇った空、
   額のように切り立った山が迫ってきます。

こんな解釈でしょうか、

たしかにこの歌にふさわしい場所でした。
今日は5月、新雪ではなく、残雪でしたが、この丘から眺める後志の山々がきれいでした。

ところが、

実はこの歌は啄木の歌ではないのですexclamation×2exclamation×2exclamation&question

この碑を寄贈した沢口観洋さん、
小樽日報に「新人」というペンネームで投稿・掲載された歌が啄木の別名と早トチリして、「啄木」と彫っちゃったんです。

というか、このころは、これが啄木の歌とされていました。
その後の研究で、全く別人であることが判明したのですが、碑には「啄木」の名が刻まれたままです。

余市 モイレ山 啄木歌碑 野口雨情歌碑

啄木歌碑の後ろにもう一基の碑があります。
野口雨情の歌碑です。

   海は紫 空青々と 朝日輝く茂入山

大正15年(1926年)講演で余市に来た野口雨情がモイレ山を詠った歌です。

野口雨情は小樽で「小樽日報」に勤務した時期があり、このとき、石川啄木が社会面担当の部下でした。

「小樽日報」の同僚であった二人の歌碑をここに並べて建てたのです。

この丘には「余市水産博物館」「歴史民族資料館」があり、現在は外壁工事中でした。
工事用シートに囲まれた入口に「開館中」の貼紙がありましたが、入ってみる気分にはなりませんでした。

見応えのある貴重な資料が展示されているそうですので、いつか機会があったら覗いてみようと思っています。

外壁工事が終ったら、ついでに、雑草を刈ったりして、丘の上全体を整備してほしいなあと思いました。

もう一つ、啄木と雨情の歌碑に説明板をつけてほしい。
何しろ、「啄木」と彫られている歌碑は啄木の歌ではないんだから。

小樽啄木会が行なわれる小樽に引き返しました。


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posted by GG at 00:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | 石川啄木
2009年05月05日

与謝野馨大臣と石川啄木


麻生内閣で経済財政担当大臣を務める与謝野馨衆議院議員、中川大臣の失態による辞任で財務大臣と金融担当大臣も背負わされて、たいへんな激務をこなしておられるようです。

失礼ながら、

さほどのキレモノではないように見え、どうも冴えない風体のオジサンに感じていたんですよ。

ところが、

GGとしたことが、与謝野馨さんが与謝野鉄幹・晶子の孫であることを知らなかったのです。

石川啄木が与謝野鉄幹・晶子夫妻にずいぶんお世話になったことは知っていたんだけど、その孫が与謝野馨さんだとはねえ、

あわてて調べてみると、与謝野馨さんって興味深い方なんですね。

与謝野鉄幹(本名:寛)は1873年(明治6年)2月26日京都生まれ、 1935年(昭和10年)3月26日52歳で亡くなった明治時代に活躍した歌人。

1892年(明治25年)11月ごろ20歳で上京して文芸活動に励み、1899年(明治32年)東京新詩社を創立、翌年、雑誌「明星」を創刊します。

「明星」は1908年、100号をもって廃刊となりますが、「明星」を通じて与謝野晶子と知り合い、北原白秋、吉井勇、石川啄木などを見出し、日本近代浪漫派の中心的な役割を果たしました。

与謝野晶子(本名:志よう)は明治11年(1878年)12月7日大阪府堺市生まれ、 昭和17年(1942年)5月29日)64歳で亡くなった明治時代から昭和時代にかけて活躍した歌人、作家、思想家。

「明星」に短歌を投稿したことから鉄幹と知りあうことになり、結婚します。

その「明星」に石川啄木も短歌を投稿し、採用されたことから啄木の中央文壇デビューとなり、啄木はちょうど中学校を退学した時期で、与謝野鉄幹を頼って上京し、新詩社に泊り込みます。

啄木は文学で身を立てることができず、病気になって故郷澁民に戻り、ほどなく北海道漂泊の旅を経て、もう一度、東京に出てきます。

まず訪れたのは与謝野鉄幹、すでに晶子夫人と結婚していて、啄木は晶子夫人にたいそう魅力を感じたようです。

鉄幹の詩

  妻をめとらば才たけて
  顔(みめ)うるはしくなさけある
  友をえらばは書を読んで
  六分の侠気四分の熱

  恋のいのちをたづぬれば
  名を惜むかなをとこゆゑ
  友のなさけをたづぬれば
  義のあるところ火をも踏む

  ・・・

GGも若かりしころ、友と肩を組んでは蛮声を張り上げて歌った歌です。男っぽい歌ですよね。

 晶子の作品で有名なのは「みだれ髪」「君死にたまうことなかれ」などの詩、

女性の思想改革、源氏物語の現代語訳にも取り組み、多大な功績を残しました。

鉄幹・晶子夫妻には11人の子供が授かり、(Wikipediaでは12人となっていますが、11人が正しいようです)、その次男与謝野秀(しげる)氏の長男が与謝野馨さん。

与謝野馨さんの父は外交官でしたから、エジプトのカイロをはじめ、馨さんも世界中に居住した経験があります。

イギリスのオックスフォード大学へ進学し、日本に帰って、東大法学部卒、民間会社に就職して、中曽根氏と出会い、政治に踏み込むことになります。

与謝野馨Official Web Siteには物語風に生い立ちなどが紹介されています。

鉄幹・晶子夫妻のことが書かれていないかと思い、覗いてみたのですが、実に興味深い人生が書かれていて、ついつい長時間読んでしまいました。

Wikipediaによると、組み立てパソコンもお手のものだそうで、幅の広い人なんですね。

石川啄木との関係、数奇な経験、幅の広い人間性・・・
与謝野馨さんを見る目が少し変りました。

長くなってしまったけど、
念のため、
この記事は応援メッセージではありません。

啄木を調べていて、こんなことにぶつかってしまったというだけのことです。

 
posted by GG at 18:48 | Comment(0) | TrackBack(0) | 石川啄木
2009年04月13日

4月13日は啄木忌 2009年は98回忌


薄倖の詩人・歌人、石川啄木が逝去したのは、
明治45年(1912年)4月13日のことです。

啄木は明治41年5月、1年ほどの北海道生活に見切りをつけ、本格的な文芸活動に胸を膨らませて、東京に向かいました。

しかし、文学活動で生計を立てることはむずかしく、明治42年2月、東京朝日新聞の校正係として就職し、家族を呼び寄せて、東京・本郷弓町に間借り生活を始めました。

新聞社に勤める傍ら、文芸活動を続けているのですが、生活が安定することはありませんでした。

明治44年2月には慢性腹膜炎を発病し、3月に退院して自宅療養を続けるうちに、肺結核に罹ります。

この間、新聞社に籍をおいてはいるものの、まったく出社する事が出来ません。

明治45年3月に、同居していた母が肺結核で逝去、

4月13日早朝、啄木も危篤状態に陥り、午前9時30分、
妻節子、長女京子、父一禎、友人若山牧水に看取られて息を引き取りました。

啄木の最後の日記です。
(岩波版「啄木全集」より)
明治四十五年二月二十日(火)
 日記をつけなかつた事十二日に及んだ。その間私は毎日毎日熱のために苦しめられてゐた。三十九度まで上つた事さへあつた。さうして薬をのむと汗が出るために、からだはひどく疲れてしまつて、立つて歩くと膝がフラフラする。
 さうしてる間にも金はドンドンなくなつた。母の薬代や私の薬代が一日約四十銭弱の割合でかかつた。質屋から出して仕立直さした袷と下着とは、たつた一晩家においただけでまた質屋へやられた。その金も尽きて妻の帯も同じ運命に逢つた。医者は薬価の月末払を承諾してくれなかつた。
 母の容態は昨今少し可いやうに見える。併し食慾は減じた。

石川啄木は26歳2ヵ月という短い人生でしたが、生前に刊行された歌集『一握の砂』を初め、死後、刊行された歌集『悲しき玩具』などのほか、小説・詩など数多くの作品が、およそ100年経過した現在でも、多くの人に親しまれています。

啄木逝去から97年・98回忌ですが、2011年には100回忌を迎えることになり、各地で記念の弔い行事が行なわれ、啄木作品も改めて脚光を浴びることでしょう。

 
posted by GG at 16:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | 石川啄木
2009年03月10日

見栄っ張りの石川啄木−−定説が覆る


石川啄木は、明治40年8月25日の函館大火により、やむなく札幌の新聞社に職を求め、さらに、一週間ほどで小樽の新設新聞社「小樽日報」に転職しました。

新規に発刊する新聞、
社屋も新築されたばかり、
啄木にとっては破格の地位や俸給が約束され、
家族も取りまとめて、意欲に燃えていました。

函館の文芸同人結社「苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)」の同人であった「岩崎正」宛にこんな手紙を出しました。(一部分)
社は新築の大家屋にて、萬事整頓致居、編輯局の立派なる事本道中一番なる由に候、……

ところが、
啄木研究家の吉田孤羊氏が昭和初期に、研究成果として発表した写真は、この手紙とは似ても似つかない、そまつな二階建ての民家のような建物でした。

これにより、

「石川啄木は見栄っ張り、嘘つき、・・・」

などと言うのが、定説となっていました。
函館から札幌へ、
札幌から小樽へとさまよう、落ちぶれた啄木、

それでも友人に対しては見栄を張りたいものだから、
こんな手紙を書いたのだと、もっともらしく思われてきたのでした。

ところが、

偶然、建築中の小樽日報社の写真がみつかりました。
啄木が言うとおり、立派な建物だったのです。

吉田孤羊氏が紹介した建物は、焼失した小樽新聞社の跡地に建てられたものだったことが判明しました。

この写真が見つかったことにより、

小樽での啄木の生活に対する観方がガラリと変りました。
落ちぶれた姿から、活き活きとした新聞編集者の姿に変貌したのです。

もちろん、啄木研究者の間では、この手紙についての疑問を抱き続ける人も多く、やはりそうだったかと喜んでいる研究家も多いのです。

たった一枚の資料が個人の評価を変えてしまう、
100年も昔の資料が、今になって発見されるというのも面白いですね。

小樽啄木会ホームページに新聞報道などが紹介されています。

なお、現在、この場所には本間医院のビルが建ち、案内板が設置されています。
(2008/5撮影)
小樽日報社跡地

 
posted by GG at 18:11 | Comment(0) | TrackBack(0) | 石川啄木
2009年02月28日

函館市立弥生小学校と西小学校の統合


2009年2月15日、函館市立弥生小学校の「さよなら式典」が行なわれたとの報道がありました。

GGが通った小学校は、このすぐ隣りにあった「幸小学校」
幸小学校は木造二階建ての古い校舎で、玄関前には二宮金次郎の像があり、隣りの消防署の火の見櫓が目立っていました。

それに比べて弥生小学校は鉄筋4階建て、
一度だけ、近隣合同の演劇発表会があって、入ったことがあるんだけど、リッパな校舎でしたね。

GGが通った幸小学校は統合されて、現在は西小学校、
GGが通った船見中学校も統合されて、西中学校になってしまいました。

そりゃあ、母校が無くなるってことは寂しいことなんだけど、建物の老朽化や住民の減少などを考えると、いたし方のないことでしょうね。

函館の西部地区、

函館の中心部、駅前辺りから函館山を望むと、函館山の右手の山裾にある地域です。

外人墓地や教会、寺院などの歴史的建造物がたくさんあります。
古い民家も多く、ややみすぼらしい感じも受けますが、なんとも言えないレトロ感に包まれます。

弥生小学校は石川啄木が代用教員として奉職した学校です。
明治40年(1907年)6月11日の日記に、このように記されています。

六月十一日予は区立弥生尋常小学校代用教員の辞令を得たり、翌日より予は生れて第二回目の代用教員生活に入れり月給は三給上俸乃ち十二円なりき、職員室には十五名の職員あり校長は大竹敬造氏なりき、児童は千百名を超えたり
 職員室の光景は亦少なからず予をして観察する所多からしめき、十五名のうち七名は男にして八名は女教員なりき、予は具さに所謂女教員生活を観察したり、予はすべての学年に教へて見たり


職員15人で、生徒が1,100人、生徒数がずいぶん多かったんですね。

現在の建物は昭和13年に建設されたもので、啄木の時代の校舎は、啄木が函館を離れる原因となった、この年8月の大火で焼失しています。

昭和16年に始まった太平洋戦争時代には、空からの爆撃をまぬがれるため、縦縞に黒いカモフラージュ塗装がなされていました。

戦争が終ってもずいぶん長い間、その塗装がなされたままで、ちょっと異様な感じでした。

そのころから数えても、もう60年以上経っている建物、
レトロだし、函館の観光資源のひとつでもあります。

しかし、問題になっている耐震強度、
この地区の人口減少、高齢化による児童数の減少、

これらの問題を解消しつつ、
歴史的建造物の保存という市民の要望、

結局、3月で閉校し、西小学校と統合することになったようです。

新しい小学校の名前は「弥生小学校」
学区に弥生という地名もあることから、この学校名を残すことに決まったようですが、

GGが通った小学校は、また一歩遠くに行ってしまった。

 
posted by GG at 17:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | 石川啄木
2008年11月05日

石川啄木の妻節子は不倫をしていた?


歌集「一握の砂」などを遺し、26歳の若さでこの世を去った石川啄木、
薄倖の詩人などともいわれますが、

数多くの友人、文学仲間がいました。

なかでも、岩手県同郷の言語学者金田一京助
札幌・小樽時代の同僚野口雨情
物心両面で啄木一家を支え続けた宮崎郁雨

の3人は、特筆される啄木の友人です。


啄木の妻節子は相思相愛、熱愛の末結ばれたのですが、
啄木研究者の間では、節子が宮崎郁雨と不倫の関係にあったという説があるのです。

「節子の晩節問題」というのですが、

「晩節」ということば、あまり聞きなれないんだけど、辞書を引いてみたら、ちゃんと載っていました。晩年の節操という意味だそうです。


宮崎郁雨は函館の文芸同人「苜蓿社」(ぼくしゅくしゃ)の仲間で、啄木の北海道放浪中はもとより、啄木が東京に出るときは啄木の妻子を預かり、東京の啄木にも経済的な援助を惜しみませんでした。

啄木一家が東京に移り住むときも、郁雨が同行しています。

郁雨は啄木の妻節子の妹と結婚し、啄木とは義兄弟の関係になります。

ところが、啄木の死の直前ごろは、啄木と郁雨は義絶状態になっています。
義絶状態になったことは事実なのですが、果して、その理由はなぜだったのか?

啄木の妹「光子」が後に発表した啄木に関する著述や発言で
「郁雨と節子は不倫関係だった」と述べているんですね。

啄木も妻節子もすでに歿後のことですが、啄木研究者の間では、妹が言っていることだから間違いないだろうということになっているのですが、

GGは、ほんとかな? と長い間疑問を感じていました。

その疑問が、この本を読んだらみごとに氷解しましたよ。


石川啄木の友人

【目次】
  京助哀歌
  陰謀捏造の名人―それでも嘘は暴かれる
  啄木と郁雨―義絶の真相

著者の「西脇巽」さん、啄木に関する本を7冊も出しているんだけど、本職は「精神科医」

精神科医ならではの人物分析もおもしろいし、
大胆な推測をし、それを裏付ける資料を徹底的に集め、論考する。

何よりも、啄木に対する思い入れが強烈、
しかし、身びいきばかりじゃない。

数々の通説に対して、真っ向から反論し、自説を展開する、
議論を吹っかけるのがお好きのようです。


金田一京助の人物像や生い立ちの背景も興味深い記事だし、
野口雨情が書いている啄木に関する記事にウソが多いと感じていたんだけど、そのワケも的確に分析してくれています。

石川啄木に興味がある方へお勧めの本です。


こちらは石川啄木に興味がある方へおすすめのサイト
  石川啄木 漂泊の詩人
   啄木の作品紹介、歌にまつわる思いや啄木歌碑の紹介
  石川啄木 啄木日記
   啄木が遺した日記 

 
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2008年10月17日

札幌市東区の「林檎の碑」、「札幌村郷土記念館」


昨日夜、中学校の同窓会があり、出かけるついでに足を延ばして、石川啄木関連の碑を探してきました。

札幌市の地下鉄東豊線、GGは初めて乗ってみました。

東区役所前駅で下車し、目指すは北11条東12丁目、
GGは初めて来た地域ですが、高層の道営アパートが林立し、駅周辺はなかなか賑わっています。

信号機の住所表示を頼りに東に向かって歩きます。

北11条通り

目指すあたりに、こんもりした木々が見えてきました。
かつて、林檎園があった場所です。

通りから少し入ったところに目指す碑がありました。

林檎の碑

明治17年(1884年)、橘仁という人物が、この地に林檎の苗を植えて成功し、林檎園を経営していました。

その功績を偲ぶために、孫の忍氏が中心になって昭和61年(1986年)に建立したもの。

現在は林檎園などの様子はまったく偲ぶことができません。

GGがなぜこの碑を見に行ったのか?

別に林檎の歴史に興味があるわけではありません。

石川啄木に関連があるのです。

「橘」といえば、啄木が函館の弥生尋常小学校の臨時教員をしていたとき、同僚の「橘智恵子」がいました。

そうです、橘智恵子の生家の場所なのです。

橘智恵子は函館から札幌のこの家に戻り、北村(現在の岩見沢市北村)の北村牧場にお嫁に行っています。

啄木の歌集「一握の砂」の「忘れがたき人人」の(二)22首はすべて橘智恵子のことを詠った歌です。

この碑の裏に碑建立の趣旨が刻まれています。
その最後にこのように記されています。

此の林檎園に関わりのある詩を一首加ふ
  石狩の都の外の
  君が家
  林檎の花の散りてやあらむ   「一握の砂」


この碑がある場所は、橘邸の宅地内のようですが、一般の人が気軽に入れるようにしてくれていました。

ここは札幌市東区、
昔は札幌村、昭和30年(1955年)に札幌市と合併したのですが、現在の東区はほぼ昔の札幌村の区域だったそうです。

そんな札幌の歴史にも興味はあるのですが、近くに「札幌村郷土記念館」という資料館があるというので、行ってみました。

北13条東16丁目

林檎の碑から歩いて10分ぐらいでしょうか。

札幌村郷土記念館

入場無料

ここは「大友亀太郎」の役宅跡。

大友亀太郎像

大友亀太郎は札幌人なら一度は聞いたことがある名前、
「大友堀」を作り、玉葱を作付けして、札幌の基礎を作った人です。

玉葱の碑

記念館の中には、開拓当時のさまざまな資料が1・2階の部屋に所狭しと並べられています。

開拓当時の風景

2階に歴代村長の肖像写真が飾られていたのですが、その下にさりげなく置かれていた写真、

石川啄木写真

啄木ではありませんか!

そして硝子ケースの中には
橘智恵子の写真

橘智恵子(戸籍名はチヱ)の学籍名簿と写真が飾られていました。

啄木や智恵子についての説明はなく、興味がない人にとっては、なぜ啄木なのか、なぜ橘智恵子の写真が飾られているのか、たぶん、わからないでしょうね。

資料館を後にして西に向かうと地下鉄「環状通東駅」に着きました。

大通り駅で降りて、創立130周年を迎えた時計台を見学。
通常は入場料200円、この日は入場無料でした。

時計台の写真を撮ると、必ず周囲のビルが背景に入ってしまいます。
ビルを背景に入れずに、と考えて撮ってみました。

130年を迎えた札幌時計台

GGの思い違い・・・。

時計台は現在の北大あたりに建てられていたものを、観光用目的で今の場所に移設した。観光客はこんな街中にある時計台にがっかりする・・・。

とんでもない思い違いでした。

この時計台、現在地からわずか130mほど離れたところに建てられたもので、明治11年(1878年)、札幌農学校はこの場所にあったのだそうです。

大通公園の啄木像にごあいさつしてきました。

大通公園啄木像

大通公園も紅葉が進んできました。

これだけ歩くと、同窓会のビールはおいしかったよ。

 
posted by GG at 22:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | 石川啄木
2008年09月25日

お彼岸の墓参り、ついでに倶知安に行きました


秋分の日、札幌は曇り空、寒くはないけど、暑くもない。
半袖じゃ寒いし、長袖じゃ暑いし、結局薄い長袖を着てでかけました。
難しい季節ですね。

お参りするお墓は苫小牧。

札幌から支笏湖に向かって走ります。
支笏湖周辺は雨が降っているか、少なくとも霧が出ているかなと思っていたら、逆に、支笏湖に近づくにつれて、雲が切れ、青空が見えてきました。

出発から一時間、そろそろ、トイレに寄っておこうかなと思うんだけど、支笏湖畔の駐車場は有料なんだよね。
トイレを借りて、一服するだけなのに、と思うからこの駐車場を利用したくないんですよ。

支笏湖にさしかかったところに、「ポロピナイ」があります。
ここの駐車場は無料。
トイレもキレイでした。土産店もあり、波が打ち寄せる岸辺まで近づくことができ、樽前山、風不死岳、恵庭岳もよく見えて、開放感を味わえる場所です。

支笏湖畔ポロピナイ

今後はここを愛用させてもらうことにしよう。


お墓参りを済ませて、帰り道、樽前山がくっきり姿を現していました。
雲がかかっていることが多い山です。

車を停めて、パチリ。

tarumae.jpg

ススキの穂が風に揺れています。

あまりにいい天気なので、来た道を戻るのももったいないから、倶知安に向かいました。

途中、羊蹄山がよく見える道中なのですが、この日は、半分ぐらい雲に隠れて、雄姿を望むことはできませんでした。

倶知安の目的は、石川啄木の歌碑です。
以前、倶知安駅前の歌碑を見に行ったことがあるのですが、倶知安にはもう一基の歌碑があるんです。

JR倶知安駅の裏山にスキー場があり、ジャンプ台が見えます。
この一帯が「旭ヶ丘公園」

広大な敷地に散策路、体育館、サッカー場、パークゴルフ場、スキー場、いずれも手入れが行き届いていて、気持ちのよい公園です。

倶知安町旭ヶ丘公園

人工のせせらぎ、池でカラスが水を飲んでいました。

公園の上のほう、ジャンプ台の近くに啄木の歌碑がありました。

asahigaoka_kahi.jpg

碑文にこう書かれています。
「一握の砂」(明治四十三年)にのっている石川啄木の短歌である。
函館の弥生尋常小学校の同僚橘智恵子を思っての一首で、「君」とは智恵子をさしている。
 しかし、この作品はうたいつがれているうち「君」が特定の人からはなれて、馬鈴薯の花を愛した「あなた」へと普遍化されていく。
 倶知安は馬鈴薯の町である。
 馬鈴薯の花を愛し、啄木に心を寄せる人たちが、ふるさとにつながる若き日を偲ぶよすがにと、この歌碑を建立した。

碑の裏側にこの碑を建立した「倶知安啄木会」のメンバーの名前が彫られていました。

asahigaoka_yotei.jpg

ちょうど、羊蹄山を仰ぎ見る方向に向けて建てたんですね。
どっかりと台座に座る自然石の歌碑、ゆったりとうねるように削った碑そのものも、一つの彫刻を見るようで、すばらしい歌碑でした。

北海道内の啄木歌碑や啄木の作品紹介サイト⇒石川啄木 漂泊の詩人

石川啄木の日記を紹介しているサイト⇒石川啄木 啄木日記

倶知安から北に向かって走り、余市、小樽、朝里峠を通って帰ってきたのですが、想定を大幅に超えた走行距離300kmのドライブになってしまいました。

昨日、9月24日から急に寒くなりました。
今朝、25日には氷点下を記録した地点があるとか、
暑さ寒さも彼岸まで、とはよく言ったものです。

 
posted by GG at 17:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | 石川啄木
2008年09月04日

釧路には26基もの石川啄木歌碑があります


道東旅行3日目です。

道東旅行map

朝早く、ゴメ(カモメ)のキュルルルル・・・という鳴き声で目が覚めました。

空は曇り空、釧路名物の霧はかかっていませんが、太平洋の見晴らしは残念ながら、あまりよくはありませんでした。

ホテルのビュッフェ朝食を食べ、街にでかけます。

釧路には26基の啄木歌碑があります。
(阿寒湖町は2006年10月に釧路市に統合されたので、湖畔の歌碑を含む数字です。)

昨日までに、2基しか踏破していませんから、今日は24基の歌碑めぐりをして、札幌まで帰ります。

ホテルは旧釧路川を挟んで西(北)にあるので、幣舞橋(ぬさまいばし)を渡って、東側(南)の市街地へ入ります。

幣舞橋は釧路の象徴、テレビでよく見る橋なので、記念写真を撮ろうと思ったんだけど、交通量が多く、おちおちよそ見なんかしていられません。

橋を渡り終えたところはロータリー交差点になっていて、どんなルールで通行するのか、一瞬迷ってしまいます。

なんとかそこを抜けて、先ず最初の碑は「港文館」です。

釧路 港文館

石川啄木が勤務した釧路新聞社を移設した建物です。
啄木に関する資料が数多く展示されています。

釧路 港文館前の銅像・歌碑

碑に刻まれている歌
 石川啄木のよめる明治四十一年一月二十一日釧路駅で

       さいはての駅に下り立ち
       雪あかり
       さびしき町にあゆみ入りにき
                     小奴

歌集「一握の砂」に収められている歌で、啄木と釧路で親交のあった芸者「小奴」の揮毫によるもの。
なお、銅像は石川啄木の像を数多く手がけている本郷新が制作、碑文の撰も同氏。

歌碑の場所の案内図を見ると、ここから徒歩圏内に数箇所の歌碑があるようなので、港文館の駐車場に車を置かせてもらって、歩き始めます。

南に向かって歩き、ガソリンスタンドの敷地内に歌碑発見。
はじめ、気がつかなかったのですが、スタンドの従業員に聞くと、ここですよ、と案内してくれました。ちょうど歌碑の前に軽自動車が停まっていて、隠れていました。

ここは釧路新聞社があった場所です。

さらに南に向かい、南大通りに出ます。
南大通りは別名「啄木通り」、街路灯に啄木の顔が印刷された幟がはためき、歩道の敷石には啄木の歌が彫られた金属板がいくつか嵌めこまれています。

釧路市南大通り(啄木通り)の敷石と幟

南大通りの「サカエヤ」という和菓子屋の前にある筈の歌碑がみつかりません。車の掃除をしていたおじさんに聞いてみると、なんと、その方はサカエヤのご主人、実は健康上の理由で廃業したとのこと。

歌碑はすぐそばにありました。
大きい歌碑を想像していたので、目に入らなかったのです。

しばらく啄木談義をし、歌碑のある場所などを教えてもらいました。
そして、お菓子を包んだときにかぶせたという、啄木ゆかりの地の案内図を1枚もらいました。
残っていた、最後の一枚だそうです。

おいしい蕎麦屋が近くにあるから、お昼はそこに行きなさい、と、なんとまあ、親切なご主人でした。さぞかし、おいしいお菓子を作っていたのでしょう。あとで、ネットで調べたら、釧路では有名な菓子店だったようです。

「小奴碑」や「啄木ゆめ公園」を見て車に戻り、「米町公園」に行きます。

釧路の港が見渡せ、手入れの行き届いたすばらしい公園です。
公園の前の「ふるさと館」は月曜日が休館日、ザンネン。

釧路米町公園の歌碑

       しらしらと氷かがやき
       千鳥なく
       釧路の海の冬の月かな

公園の駐車場に車を置き、周辺11基の歌碑を巡りました。
啄木が小奴を呼んで酒を呑んだ料理屋「しゃも寅」跡、その井戸があった場所、それぞれに歌碑があります。

啄木がカルタ会をたのしんだという「本行寺」は別名「歌留多寺」、このお寺に啄木の資料館があるので、案内を乞うと、本堂横の一室に案内され、さまざまな資料を見せてもらいました。

りっぱなお寺でした。

本行寺前の歌碑

       一輪の赤き薔薇の花を見て
       火の息すなる
       唇をこそ思へ

行きつ戻りつの場面もあったけど、無事にすべての歌碑を探し、残るは5ヶ所。
米町公園の車に戻り、残る5箇所は車で廻ります。

幸い、このあたりは交通量も少なく、道路に停車してもあまり迷惑にはならないような場所でした。

なかでも、太平洋の波がすぐそこに打ち寄せる、米町交流プラザ前の歌碑は、素晴らしい歌碑でした。

米町交流プラザ前の啄木歌碑

釧路市内23基の歌碑すべてを探し、写真に収め終えたのは12時半頃、かれこれ、4時間ほど歩き回ったでしょうか。

教えてもらった蕎麦屋でソバをいただきました。
たしかにおいしい、そして、テレビの「秘密のケンミンショー」で紹介されていたように、ソバは緑色でした。茶ソバのような色なのですが、釧路のソバにはクロレラ(葉緑素)が混ぜられているのだそうです。

ソバ屋を出ると、雨が降ってきました。
ラッキーでしたね、この雨が歌碑めぐり途中だったらと思うと・・・。

春採公園や丹頂鶴、それから、和商市場で新鮮な釧路の魚介類をおみやげにと思っていたのですが、雨が次第に強くなり、意欲も失せて、帰途に就きました。

激しい雨の中、走る走る。

帯広、清水、日勝峠、日高、夕張、北広島をひた走り、家に着いたのは夜九時。

途中、ほとんどが強い雨と霧、雄大な十勝平野を眺望することもできず、道の駅数ヶ所で休憩しただけの3日目のドライブでした。

この日の走行距離は400km、
3日間あわせて、900kmの旅でした。

なお、すべての啄木歌碑の写真と、歌の解釈などを別サイトに掲載しています。(作業中です)
興味のある方は覗いてみてください。

  石川啄木 漂泊の詩人

  石川啄木 啄木日記


posted by GG at 16:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 石川啄木
2008年08月25日

空知の石川啄木歌碑めぐり


美唄(びばい)市で石川啄木の特別展をやっているというので、近隣の歌碑めぐりを兼ねて、出かけてみました。

石川啄木は、明治41年(1908年)1月20日、小樽から釧路に向かう途中、美唄駅を通過しました。

石川啄木の当日の日記の一部です。
一月十九日

・・・二等室の中に人は少ない。急に旅にある様な心地になつて、窓を透かして見たが、我が愛する木立の都は雪に隔てられて、声もなく眠つて居た。午后四時岩見沢に下車、橇を駆つて此姉が家に着く。札幌の妹も来て居たが、夕方の汽車で帰つて行つた。凍れるビールをストーブに解かし、雞を割いて楽しい晩餐を済ました。此夜は茲で一夜を明かすのだ。“雪中行”第一信を二通書いた、日報と釧路新聞のために。

一月二十日

曇天。十時半岩見沢発。途中石狩川の雪に埋もれたのを見た。神威古潭で夏の景色を想像した。午后三時十五分当旭川下車、停車場前の宮越屋に投宿。
 旭川は小さい札幌だ。戸数六千、人口三万、街衢整然として幾百本の電柱の、一直線に列んでるのは気持がよい。・・・

石川啄木はこんな歌を詠みました。

     石狩(いしかり)の美国(びくに)といへる停車場の
     柵(さく)に乾(ほ)してありし
     赤き布片(きれ)かな     (一握の砂)

北海道石狩管内に「美国」という駅はなく、「美唄」の記憶違いだろうというのが定説になっています。

今年がちょうど100年であることを記念して特別展が開催されました。


美唄駅に車を駐車し、徒歩10分ほどのところに「美唄市郷土史料館」がありました。

屯田兵、石炭の掘り出し風景、美唄の特産物などが常設展示されています。

石川啄木特別展は、渋民・盛岡時代の資料、北海道漂泊時代の資料や道内の歌碑写真などが展示されていました。

釧路の「啄木かるた」数種も紹介されていました。

何枚か写真を撮ったのですが(撮影OK)、デジカメのメディアがI/Oエラーになっちゃって、ケータイで撮ったこの1枚しか残っていません、ザンネン。

柵に乾してありし赤き布片

「柵に乾してあった赤い布片」とはこれだろうという説明です。
当時、深藁靴を履くとき、足に巻いた「赤ケット」という布だそうです。

※この特別展は8月24日(日)で終了しています。

美唄駅に戻り、駅東口広場の歌碑を訪ねました。

美唄駅東口広場の啄木歌碑

平成15年に建立された歌碑で、なかなか立派なものです。


ここまで来たら、せっかくの機会だからと、砂川まで足を伸ばしました。
砂川の滝川公園に歌碑があります。

滝川公園の石川啄木歌碑

自然石に歌を刻んだ、こちらもなかなかりっぱな歌碑でした。
刻まれている歌
     空知川雪に埋れて
     鳥も見えず
     岸辺の林に人ひとりゐき   (一握の砂)

りっぱな公園でしたが、利用する人は少ないようで、碑も少し寂しげなたたずまいでした。

もう一カ所、北村というところに歌碑があります。

岩見沢から月形方面に向かうと、途中に「北村」というところがあります。(現在は岩見沢市)

北村の市街地を過ぎて、少し不安になったころ、目立つ看板がありました。

北村牧場入口の啄木歌碑

刻まれている歌
     石狩の空知郡(そらちごほり)の
     牧場のお嫁さんより送り来し
     バタかな。      (悲しき玩具)

北村牧場という個人経営の牧場の中にあるのかと思っていましたが、道路わきに建立されていて、すぐにみつけられました。

この歌は、啄木が函館の小学校で代用教員時代、同僚の「橘智恵子」にひそかな思いを寄せていたのですが、その後、智恵子は札幌の実家に帰り、北村牧場に嫁入りし、当時貴重な食品であったバターを東京にいる石川啄木に送ったことを詠ったものです。

秋の日の、啄木碑探索ドライブでした。


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2008年08月05日

今日も石川啄木のこと


札幌市のウェブサイト、「Webシティ・さっぽろ」で、ちょっと調べ物をしようと思い、アクセスしてみました。

へええ、こんなウェブサイトがあったんだと、あちこち見てしまいました。

各地で行われているイベントなどが盛りだくさん紹介されています。

ひょいと、目についたのが「石川啄木・悲しき玩具」

朗読サービスのページです。

作者が歿後50年以上経過した、著作権切れの作品で、北海道に関連のある作品を朗読してくれています。

さっそく、そのページを開き、手許に本を出してきて、しばらく本と見比べながら、聞き入ってしまいました。

ところどころ、イントネーションがGGとは違う箇所があるなと思いながら、キチンと訓練を積んだプロの読み手だから、そっちのほうが正しいんだと、妙に感心しました。

全部で一時間ほどもかかるから、途中でやめちゃったけど、眼だけで読む本と、「聞く」本、たまには読んでくれる本を「聞く」のもいいもんだ。

ただし、文語調の歌なんかは、聞くだけじゃ意味が通じないかもしれない。
とっても聞きやすい朗読なんだけど、読み聞かせって、難しいことなんだよね。


公開されているのはこんな本です。

声で聞く、北海道ゆかりの文学作品

小林多喜二の「蟹工船」があるかなと思ったんだけど、ありませんでした。


あれ、? 何を調べようとしてたんだっけ?
じ〜じ、肝腎なことを忘れちゃった exclamation&question

ま、いいか、たいしたことじゃなかったんだ。exclamation&question

 
posted by GG at 15:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | 石川啄木
2008年08月04日

石川啄木 最後の歌



明治の歌人、石川啄木は「一握の砂」と「悲しき玩具」の2歌集を遺しています。

歌の他に、詩集や小説、評論、日記など、数多くの作品を遺しているのですが、やはり、歌人としての評価が高いようです。

今年3月、『「悲しき玩具」直筆ノート』を手に入れました。

啄木が書き残したノートをそのままスキャニングして、一冊のノートに復元したものです。

   発行:盛岡啄木会   昭和55年(1980年)

takuboku_gangu.jpg

ページはこんなふうになっています。

takuboku_jihitu.jpg

詩集「悲しき玩具」を活字で読むのとは違って、啄木の、あの筆跡で、推敲の跡も見える歌を読むのは、とても興味深いものです。

石川啄木の歌集「一握の砂」の冒頭は、あまりにも有名なこの歌です。

      東海の小島の磯の白砂に
      われ泣きぬれて
      蟹とたはむる


一方、「悲しき玩具」の直筆ノートの冒頭はこんな歌です。
     
      途中にてふと気が変り、
      つとめ先を休みて、今日も
      河岸をさまよへり。


啄木はこのころ、東京朝日新聞の編集員として勤めていたのですが、サラリーマンとしては、褒められたものじゃなかったようです。

それでも、

      こころよき疲れなるかな 
      息もつかず 
      仕事をしたる後のこの疲れ


という歌(一握の砂)を詠ったように、真面目に仕事と取り組んでいた時期でもあります。

間もなく、慢性腹膜炎を患い、療養しているうちに結核に冒され、復職することなく、26歳の若さで亡くなります。

「一握の砂」は啄木生存中に発刊され、好評を博するのですが、「悲しき玩具」は歌稿ノートを土岐哀果(善麿)に託して、原稿料を受け取り、発刊されたのは啄木死後のことでした。

病院などへの支払いのため、早く原稿料を手にする必要もあり、それ以上に、歌集の編集や個々の歌を充分推敲する体力も失せていたのでした。

「一握の砂」の冒頭歌「東海の・・・」は充分検討されて配置された歌であるのに、「悲しき玩具」では、作歌順に並べられています。

「悲しき玩具」冒頭の歌として配置するにはどうかな、と思われる歌、こんな事情があったんですね。

さて、「悲しき玩具」直筆ノートを見ていて、あれっ? と思う箇所がありました。

◆発行された「悲しき玩具」の冒頭の歌2首はこうです。

   呼吸すれば、
   胸の中にて鳴る音あり、
    凩よりもさびしきその音!

   眼閉づれど
   心にうかぶ何もなし
    さびしくもまた眼をあけるかな

直筆ノートにはない歌が冒頭に入っているのです。
実は、ノートの外に原稿用紙に書かれた2首が遺されており、これを冒頭の歌として、発行されたのでした。

◆明治44年8月から、筆跡がガラッと変ります。

このころは自宅療養の時期ですが、もうペンを持つ力がなかったのでしょうか、啄木が口述して、妻節子が書いていたようです。

筆跡ばかりではなく、文字使い、かな使いも変っています。

◆そして、「悲しき玩具」詩集の最終の歌は、

        庭のそとを白き犬ゆけり。
         ふりむきて、
         犬を飼はむと妻にはかれる。

活字になって発行されている啄木歌集では、いずれもこの歌で終っているのですが、

直筆ノートにはまだ、続きがあるのです。

        大跨に椽側を歩けば、

2・3行目は未完成なのです。

啄木はこの続きをどんなふうに詠おうと思ったのでしょうか。

一つ前の歌は、何かほのぼのとした歌になっているから、この歌も、プラス思考の言葉を続けるのか、はたまた、啄木らしい暗い言葉で終らせるのか、当の啄木自身も迷っていたのかもしれません。


先日、写楽の肉筆画がギリシャで発見されたというニュースがありましたが、研究者にとっては、飛び上がるほどうれしいことでしょうね。

コピーながらも、直筆の歌を繰り返し眺めていると、啄木の息づかいまでが聞こえてきそうです。

 
posted by GG at 18:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | 石川啄木
2008年06月01日

石川啄木 倶知安駅前の歌碑


虻田郡方面に行く用事があり、少し時間が出来たので、倶知安(くっちゃん)に行きました。

お目当ては石川啄木の歌碑です。

札幌から洞爺湖に向かって走り、お決まりのコース、中山峠で一服します。

峠の道の駅から羊蹄山を拝みます。

中山峠から羊蹄山を望む

あいにくの曇り空で、もやの中に浮ぶ羊蹄山もいいなあと思ったのですが、写真で見ると、もう少し、くっきりしているほうがいいようですね。

喜茂別町、留寿都村、真狩村、京極町、倶知安町

羊蹄山を取り囲むように点在する山麓の町々です。羊蹄山から流れ来る豊かな水の恵みを受けています。

どこからでも雄大な羊蹄山を見ることができます。

羊蹄山と川の風景

じゃがいも、アスパラなどの農産物が知られていますが、酪農も盛んな地域です。

羊蹄山麓の牧場

倶知安駅前の公園に石川啄木の歌碑がありました。

倶知安駅前啄木歌碑

刻まれている歌はこんな歌です。

    真夜中の
    倶知安駅に下りゆきし
    女の鬢(びん)の古き痍(きず)あと

石川啄木処女歌集「一握の砂」に収められている歌です。

石川啄木歌碑の歌

歌碑に添えられている碑文にはこのように書かれています。
 石川啄木が函館から小樽へ向かう列車で、真夜中の倶知安駅を通ったのは、明治四十年(1907)九月十四日の午前一時過ぎである。
 啄木はこの時の印象を短歌に詠んで、歌集「一握の砂」(明治四十三年十二月)に収めた。
 鬢(頭の左右側面の髪)に古い痍あとのある女は、実景であったか、それとも真夜中の倶知安駅のイメージにふさわしいものとして、あるいは職を求めて旅するみずからの心象として、創り出したものであったかは、定かではない。
 当時の倶知安村は、開墾が始って十五年たったばかりであった。
 駅前通りはようやく開通したものの、電灯はともっていなかった。
 この夜駅を降りた人たちの見上げた空に、王者の象徴・農耕の星として親しまれてきたすばるが輝くまでには、まだすこしの間があった。

この添碑の裏面には歌碑建立期成会のメンバー19名の名前と協賛会員5名の名前が刻まれています。

建立されたのは「平成6年8月6日」
文 武井静夫  書 中野帰山  施工 菊池石材店

この碑を、羊蹄山が見守ってくれています。

石川啄木歌碑を羊蹄山が見守る

倶知安駅の裏山に大小二つのスキージャンプ台を発見。
冬はスキー場なんですね。

倶知安駅裏のスキー場

この季節に見ると、のどかな倶知安町ですが、冬は豪雪地帯、開拓時代の厳しさが偲ばれます。

 
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2008年05月31日

留寿都村の“赤い靴”母思像


留寿都村の赤い靴の銅像を訪ねてきました。

札幌から洞爺湖に向かう国道230号線、
中山峠を下り、喜茂別町を過ぎると、留寿都村に入ります。

村の中心部の交差点脇に「赤い靴ふるさと公園」があります。
村役場のすぐ隣です。いつも何気なく通り過ぎていた場所でした。

赤い靴を履いた「きみちゃん」は立っていました。

母思像 赤い靴のきみちゃん

大きな自然石の上に座っています。
靴だけが赤く塗られていて、妙に印象的です。

説明板があるのですが、読み取りにくくなっています。

小ぢんまりとしていますが、手入れがよく行き届いている公園でした。

留寿都村 赤い靴公園

公園に隣接して、「赤い靴公園の館」があります。

留寿都村 赤い靴公園の館

資料館かなと思って入ってみたら、トイレでした。

きれいなトイレで、“赤い靴”の曲がBGMで流れています。
男子トイレに立つと、目の前には、赤い靴の歌詞のプレートが貼られていました。

“赤い靴”のきみちゃん悲話と石川啄木との関係の詳細はコチラ、
“赤い靴”のきみちゃん物語

 
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2008年05月16日

雨だれ


気温の低い日が続いています。

この時期に暖房でもないだろうと思いつつ、やむを得ず、暖房のスイッチを入れることがある札幌の昨今です。

でも今朝は明るい太陽の光が降り注いでいました。
気温もそこそこ。

天気予報では午後から雨と言っていました。

・・・まさか
   ・・・曇ってきたと思ったら、雷です。
      ・・・とうとう降ってきました。

NHKテレビBS放送で、13時〜14時、毎日、クラシックの演奏を放映しています。

今日は、ピアノ演奏。
ショパンが中心で、『雨だれ』とか『幻想曲』、『バラード第4番』、『軍隊ポロネーズ』などが演奏されていました。

ショパンは、結核に冒されて亡くなったとされています。

結核・雨だれといえば、石川啄木も結核で亡くなっていて、雨だれを歌った調子のよい歌があったことを思い出し、調べてみました。

こんな歌です。

      たんたらたらたんたらたらと
      雨滴(あまだれ)が
      痛むあたまにひびくかなしさ
                   (一握の砂)

調子はいいんだけど、啄木にかかると、雨だれの音が、痛む頭に響いて悲しくなってしまうんですね。

その点、ショパンの『雨だれ』は安心して聞いていられます。

・・・と思ったのですが、ショパンは結核のため胸に出来た空洞に血が滴り落ちる音を想像してこの曲を作った、という解説記事を読んだことがあり、それを思い出しながら聞いていると、安らかな気分にはなれません。

壮絶!

石川啄木のもう一つの代表的歌集「悲しき玩具」のトップの歌はこんな歌です。

     呼吸(いき)すれば、
     胸の中(うち)にて鳴る音あり。
      凩(こがらし)よりもさびしきその音(おと)!

GGは雨の日、好きですね。
なんとなく落ち着くし、雨だれの音、妙に心地よし!

雷はいけませんね。
家が震えるぐらい、雷が強くなってきました。

クワバラ、クワバラ・・・この語源は?


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2008年05月12日

小樽運河公園の「赤い靴・親子の像」銅像 


小樽啄木会主催の「啄木忌の集い」に出席してみました。

時間に余裕をもって出かけましたので、去年除幕された「赤い靴」の銅像を見て来ました。

JR小樽駅から海に向かって歩くと、小樽運河があります。
相変わらず、観光客がおおぜいでした。

特に目立つのは、韓国? 台湾? 中国? のアジア系の観光客。
顔立ちは日本人と変らないんだけど、大声で話す言葉が違います。

ここにくると、つい写真を撮りたくなります。

2008年5月 小樽運河

赤い靴の銅像を探したのですが、見当たりません。

案内所で聞きました。
小樽運河の西端にある「運河公園」にあるのだそうです。

運河に沿って、西へ西へと歩きます。
この日は風が冷たく、手がかじかむほどでした。

少し歩くと、もう観光客の姿はありません。

小樽運河の中心部から歩いて20分ぐらい、1kmぐらいあるでしょうか、運河公園に着きました。

運河公園の赤い靴銅像

「運河公園」についてこんな説明板がありました。
運河公園は、小樽運河から旧日本郵船鰹ャ樽支店(国指定重要文化財)の間にあった専用船入澗(ふないりま)と倉庫群の跡地につくられた公園であり、運河とその周辺の往時の面影を今に伝える記念公園です。
 正面に威風堂々とそびえる旧日本郵船鰹ャ樽支店は、明治の終わりから昭和初期にかけて外国との貿易等により隆盛を極めた海運会社で、荷を満載した艀(はしけ)が小樽運河からこの船入澗に出入りし倉庫への荷役を行っていました。
 当時、小樽港は、歴史的景観を次世代に引き継ぐため、当時、この敷地内にあった建築物や構造物の建設材料をできるだけ保存・再利用し、公園の整備を行いました。
             平成10年10月竣工

子供たちが走り回って遊んでいましたが、赤い靴の銅像は日当たりのよい場所にありました。

小樽 赤い靴・親子の像

童謡「赤い靴」は野口雨情が作詞した歌、歌に秘められた悲話が感動を誘います。

碑文、おもてには「赤い靴はいてた女の子・・・」の歌詞が書かれていましたが、裏面の碑文にはこのように書かれていました。
     童謡「赤い靴」と小樽の街
 この歌のモデルとなった「きみ」ちゃんは、2歳の時に母「かよ」と共に静岡から函館に渡った。そこで母は鈴木志郎と出会い結婚するが、留寿都村へ入植の際、きみを外国人宣教師夫妻に預けた。その後きみは宣教師夫妻の帰国時に重い結核のため横浜から船で米国に渡れず、東京の孤児院に托され、わずか9才でこの世を去った。
1907年に志郎は札幌の「北鳴新報」に就職し、そこで野口雨情と出会い家族ぐるみの交流を深める。母は娘きみの話を打ち明け、それが雨情の詩となり本居長世が曲を付けて1922年童謡「赤い靴」が生まれた。
札幌の後、志郎・雨情は「小樽日報社」で石川啄木と机を並べ親交をもつ。
鈴木夫妻は各地を転職した後、1940年小樽のカトリック冨岡教会の門前に居を構え、きみの死を知らずその幸せを信じ、熱心なキリスト信者として暮らし、今は中央墓地で眠っている。

私達は、世界中の苦しみを抱えた家族の幸せを願い、小樽市民をはじめ全国からの温かい募金によって、ゆかりのある小樽の地に「赤い靴・親子の像」を建てた。
 天国できみちゃんが幸せに暮らす姿を夢に描いて・・・

  2007年11月23日 「赤い靴・親子の像」建設委員会

「きみちゃん」の、もう少し詳しい記事がココにあります。

小樽の「きみちゃん」は両親に抱かれているというのがよかった!

「きみちゃん」のお母さんの生れ故郷である静岡県日本平にも銅像があり、ここは、「きみちゃん」とお母さんが並んでいます。

日本平の【赤い靴】


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2008年05月11日

石川啄木 啄木忌の集い 小樽 2008


第96回を迎えた「啄木忌の集い」にはじめて参加してみました。

ちょっとしたことで、関わりを持つことが出来て、案内状をもらいましたので、参加してみました。

小樽啄木会の主催です

石川啄木が小樽で暮したのは今からちょうど100年前、なのですが、
100年前の今頃は、小樽を離れ、釧路に単身赴任し、その釧路をすでに去って、東京に行っています。

それから4年後、啄木は明治45年(1912年)4月13日、満26歳1ヶ月で亡くなっています。

小樽啄木会は例年1ヶ月遅れの啄木忌の集いを催していて、GGも初めて参加してみました。こんな集いがあるなんて、これまでは、知る由もなかったからね。

啄木忌の集い

小樽文学館に集まったのは、熱狂的な啄木ファン50人ほど。

今年は、歌人の「湯本 龍二」氏の講演がありました。
「啄木・歌の生涯」

title.jpg歌人らしい観点から、啄木の時代の歌人たちの作品、啄木と同世代の歌人の作品などを紹介し、啄木の歌の特徴というか、啄木のウラ・オモテの生きざまなどを聞かせてもらいました。

1時間半ほどの講演が、あっという間に時間が過ぎて、事務局から「時間切れ」の耳打ちがあったりしました。

考えてみると、こんな講演会なんて久しぶりです。

講演の後、小樽文学館からぞろぞろ歩いて、小樽駅に移動したのですが、途中、啄木ゆかりの地の解説もありました。
(これはまた明日、書きます)

今年で96回目の啄木忌の集い、啄木ファンって今の時代でも多いんですね。100年近くも続いているっていうのもすごいね。

講演の中にあったお話ですが、学校の教科書で取り上げられている歌人で、最も多いのが「若山牧水」、次に「石川啄木」だそうです。

若山牧水の代表的な歌

白鳥は悲しからずや 空の青 海の青にも 染まずただよふ
幾山河 越えさり行かば 寂しさの はてなむ国ぞ 今日も旅ゆく


若山牧水は石川啄木と同じ年の生まれです。

明日また、小樽行のオマケの記事をアップします。



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2008年03月23日

ヤフオク体験記


石川啄木の全集が欲しかったんです。

「一握の砂」、「悲しき玩具」は手に入ったんですが、小説とか詩集とかをひととおり読んでみたいのです。

日記も残されているし、手紙なんかも文学的な価値が高いと言われているんです。

ネットでかなり公開されているんだけど、公開されているのは、いわば、翻訳されているもの。

たとえば、縦書きの本で読むのと、横書きのネットで読むのとでは違いますよね。

アマゾンとか書店とかで探していたんだけど、なかなかみつからないから、ふと思いついてヤフーオークションを探してみました。

あるんですね。

もちろん、古本だけど、格安で出品されています。

喜んで札を入れました。締切までに3日ぐらい余裕がありました。

ところがです、それまで入札人数0だったのに、即座に、GGの価格を上回る価格が入札されました。

これは失敗、狙っている人がいたんですね。

値段を釣り上げても、たぶん買えないと判断したので、あっさりあきらめました。


別の全集が出品されていたので、今度は、締切5分前まで様子を見て、誰も応札しないことを確かめて、札を入れました。

今度はみごと落札です。

啄木全集

商品はすぐに届きました。
なかなかしっかりした本です。

そして、価格も古本価格。
ほしかった資料がぎっしり詰まっています。
いい買い物をしたなあと悦に入っています。


その勢いで、もう一点、よく確かめないで落札してしまいました。

調べたら、新品で定価販売、古本ならもっと安いのがありました。
GGが買ったのは古本で、プレミア価格。

悲しき玩具

それでも、内容はとても気に入りました。

詩集「悲しき玩具」が啄木の自筆で書かれているのです。

啄木自筆の悲しき玩具

啄木の文字は独特で親しみやすい書体です。
新幹線盛岡駅の駅名が啄木の文字を拾っているそうです。

詩集「悲しき玩具」は啄木が亡くなってから刊行されているのですが、最初の部分と、最終の部分とでは文字の勢いが全く違っています。

そして、最終の歌は書きかけで終っているのです。

活字になって刊行されている詩集には載っていない歌、啄木はどんな歌を詠もうとしたのか、とても興味があります。

「悲しき玩具」の最終の歌と、書きかけの歌はこうです。

   庭のそとを白き犬ゆけり。
    ふりむきて、
    犬を飼はむと妻にはかれる。

   大跨に椽側を歩けば

啄木はこのとき、病気療養中。
作歌の意欲はあったのですが、体力はすでにすっかり失せていました。
 


posted by GG at 23:19 | Comment(0) | TrackBack(0) | 石川啄木
2008年02月19日

石川啄木の歌集初版本を手に入れました


といっても、復刻版です。

一握の砂表紙s.jpg

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2008年02月11日

石川啄木プチ検定


先日、「北海道の難読地名」というプチ検定問題をアップしたのですが、今日は「石川啄木検定」問題を作ってみました。

こんな問題です。

1.啄木の父の職業は
2.函館の苜蓿社、苜蓿ってどんな植物?
3.啄木と同僚で、後の童謡作家は誰?
4.今夜こそ思ふ存分泣いてみむと 泊りし宿屋の 茶の(  )かな
  (  )に入る文字は?
5.釧路の芸者の名前は?
6.啄木が北海道に滞在した通算期間は?
7.京橋の滝山町の新聞社は何新聞?
8.啄木が書いた日記は、ローマ字・漢文・英語のうちどれ?
9.啄木が亡くなった年齢は?
10.啄木の墓はどこにある?

合格点を取ると、認定証がもらえます。
(お遊びですよ、念のため)



チャレンジしてみてくださいexclamation

石川啄木検定
 
posted by GG at 22:54 | Comment(0) | TrackBack(0) | 石川啄木
2008年01月22日

石川啄木100年前の今日から新聞社に出社


石川啄木は明治41年(1908年)1月21日、ちょうど100年前の昨夜9時半に釧路の土を踏み、翌22日から釧路新聞社に出勤しました。

啄木の日記や歌からその様子を想像してみました。

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2008年01月13日

石川啄木が釧路に行ってから100年


石川啄木が小樽から釧路に行ったのは明治41年(1908年)1月のことです。

今年がちょうど100年目に当たり、釧路で来釧100年の記念行事が行われます。

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2007年12月10日

石川啄木と「赤い靴はいてた女の子」


童謡「赤い靴」はこんな歌詞です。

     赤い靴 はいてた
     女の子
     異人さんに つれられて
     行つちやつた

     横浜の 埠頭(はとば)から
     船に乗つて
     異人さんに つれられて
     行つちやつた

     今では 青い目に
     なつちやつて
     異人さんのお国に
     ゐるんだらう

     赤い靴 見るたび
     考へる
     異人さんに逢ふたび
     考へる


野口雨情が大正10年(1921年)に作詞し、本居長世が翌年作曲して以来、歌い継がれている童謡です。

実は赤い靴をはいてた女の子は、異人さんに連れて行ってもらえなかったんですね。

そして、石川啄木と少なからず関連があったことを知り、少し調べてみました。

(続きのページには音が入っています。ボリュームにご注意ください)
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posted by GG at 16:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | 石川啄木
2007年11月14日

小樽日報創刊 啄木来樽百年特別展


明日から札幌は平地でも冬の気候になるというから、懸案であった小樽文学館に行ってきました。

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posted by GG at 23:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 石川啄木
2007年11月07日

小樽にある石川啄木の歌碑めぐり


石川啄木 小樽公園の歌碑


石川啄木が小樽にいたのは、明治41年(1907年)9月16日から翌年の1月19日まです。ことし、2007年はそれからちょうど100年目に当たります。

それを記念して、市立小樽文学館で「石川啄木と小樽日報」展が開かれています。

天気もよく、暖かかったので、行ってみました。夏場なら素晴らしい景色の峠を越えていくのですが、雪でも積もっているといやなので、下の道をテクテク走りました。我が家からは1時間半もかかりました。

小樽文学館に行くと、なんと、休館日!
月曜日が休館日だということを調べていたのですが、どうして?と思ったら、11月3日の祭日分の振替休日でした。

がっくりしましたが、もう一つの目的である歌碑めぐりをしました。

上の写真は小樽公園にある歌碑です。

   こころよく
     我にはたらく仕事あれ
   それを仕遂げて
     死なむと思ふ

啄木は小樽日報社に勤務しました。
創刊号から編集に携わり、責任ある仕事をまかせられ、充実した仕事ぶりだったと思われます。
この歌を表面的に読むと、仕事に充実感を感じていなかったように解釈できますが、実はある程度の充実感を感じていて、そのまま仕事を続け、やり遂げたいと思い、やり遂げるだけの自信も持っていたのだと私は解釈しています。

仕事をやり遂げたら、死んでもいいという前向きの気持ちを表したものです。

この歌碑がある小樽公園は小樽市役所がある天狗山のふもとにあります。市民会館や運動場なども近くにあります。

小樽公園の頂上まで車で行けますが、歌碑は公園の入口付近にあります。頂上まで行かずに公園の門の近くに車を停め、木立の中に入っていくとすぐに探せます。高さが4メートルほどもあるりっぱな歌碑です。

造園の方が、公園内の木々に冬囲いの作業をしていました。

小樽公園から海の方向に向かって走り、水天宮を探します。
国道5号線と、港との中間に小高い山があります。密集した住宅街で入口がわかりにくいので、ガソリンスタンドで聞きました。

水天宮は由緒ある神社です。

急な階段を昇ってみると、そこは、実に見晴らしのいいところです。
石狩湾が見渡せます。その海を背にして歌碑は建っていました。
水天宮の神社前の広場の北東の位置です。移設されてここに建っているようですが、これもりっぱな歌碑です。特に、移設されたときに造られた台座がりっぱでした。

石川啄木、水天宮にある歌碑

   かなしきは
    小樽の町よ
   歌うこと
     なき人人の
   聲の荒さよ

この歌を読むと、啄木は小樽の人をさげすんでいるように感じますが、その当時の啄木の日記などを読むと、小樽の人々の荒っぽいながらも活気溢れる言動に、むしろ感動を覚えていたようです。

小樽の街、いい街ですね。
運河沿いには石造りの古い建物がたくさん残ってます。

小樽運河

韓国語らしい言葉が飛び交っていました。

小樽文学館の特別展、近いうちに出直します。
 
posted by GG at 14:42 | Comment(0) | TrackBack(0) | 石川啄木
2007年09月28日

ふるさとの山に向ひて・・・CDブックを買いました



「千の風になって」の作曲者「新井満」さんが作曲した「ふるさとの山に向ひて」のCDがついたCDブックです。
¥1,890

昨日、自動車運転免許の更新に行ったのですが、講習までに時間があったので、近くの本屋に入ってみました。

「詩・俳句・短歌」のコーナーがあり、そこに石川啄木の本がありました。
GGとしては、啄木の作品集がほしかったのですが、小さな本屋では初版が100年前の本なんて置いていませんね。

上の写真の本があったので、さっそく購入しました。
おっ、新井満さんのCDもついているんだ、と感激し、中をよく見ずに買っちゃいました。

そのとなりにはこんな本も並んでいました。

西脇巽著 石川啄木「東海歌二重歌格論」¥1,680

石川啄木の代表的な歌「東海の小島の磯の白砂に/我泣きぬれて/蟹とたはむる」が歌われた場所はほんとうに函館の大森浜であったのか、少し疑問を感じていたので、買ってみました。

著者の「石川巽」さん、石川啄木に関する著書は、これで7冊目、とても大胆な説を打ち出しています。

読み応えがありそうな本なので、とりあえず「ツンドク」

「ふるさとの山に向ひて」の本をさっそく開いてみたら、初めの部分は見開きの2ページに大きな字で歌、そして、それにふさわしい写真が載せられています。

第1章から第5章まで啄木の歌で組曲を作ったんですね。

その楽譜も掲載されています。

ぱらぱらとページをめくりながら音楽を聴きます。
歌唱と、短歌の朗読、オーケストラの演奏が収録されています。
GGはオーケストラ演奏が気に入りました。

残念ながら、音楽は「第1章」だけです。
全部聴きたくなったから、楽天でさっそく注文しました。


[啄木・組曲]ふるさとの山に向ひて 新井満作曲 ¥2,625
 
 
posted by GG at 18:09 | Comment(0) | TrackBack(0) | 石川啄木
2007年09月14日

100年前の今日、啄木が札幌に来ました


明治41年(1907年)9月14日、今日からちょうど100年前です。

100年前の昨日、石川啄木は函館を発ち、今日9月14日に札幌に着きました。

函館に住んでいた啄木は、8月25日の函館大火で勤め先の新聞社が類焼し、職を失ったため、札幌の北門新聞社に転職するためでした。

このころ、小樽には啄木の妹がいて、小樽駅長の山本千三郎に嫁いでいました。啄木は函館から列車で小樽に向かい、この義兄宅で夜行列車の旅の疲れを取るため、一休みして札幌に向かいます。

札幌に到着したのは午後1時5分過ぎ、詩友の向井夷希微(いきび)とその子らが迎えに来てくれていました。

向井が間借りしていた田中サト宅は徒歩ですぐ近く、啄木はこの下宿の一部屋に同居人と一緒に住むことになります。

啄木の未完の小説「札幌」には函館から小樽・札幌に向かう旅のこと、札幌から小樽に移るいきさつなどが書かれています。

その小説の中で、啄木は札幌駅に降り立ったときの感想を次のように書いています。

小説「札幌」の一部分、ここから−−−−−−−−

 小雨が音なく降り出した來た。氣が付くと、同車の人々は手廻りの物などを片付けてゐる。小娘に帶を締直して遣つてゐる母親もあつた。既う札幌に着くのかと思つて、時計を見ると一時を五分過ぎてゐた。窓から顏を出すと、行手に方つて蓊乎こんもりとして木立が見え、大きい白いペンキ塗の建物も見えた。間もなく其建物の前を過ぎて、汽車は札幌驛に着いた。

 乘客の大半は此處で降りた。私も小形の鞄一つを下げて乘降庭プラツトホームに立つと、二歳になる女の兒を抱いた、背の高い立見君の姿が直ぐ目についた。も一人の友人も迎へに來て呉れた。

『君の家は近いね?』

『近い? どうして知つてるね?』

『子供を抱いて來てるぢやないか。』

 改札口から廣場に出ると、私は一寸停つて見たい樣に思つた。道幅の莫迦に廣い停車場通りの、兩側のアカシアのなみきは、蕭條たる秋雨に遠く/\煙つてゐる。其下を往來する人の歩みは皆靜かだ。男も女もしめやかな戀を抱いて歩いてる樣に見える、蛇目の傘をさした若い女の紫の袴が、その周匝あたりの風物としつくり調和してゐた。傘をさす程の雨でもなかつた。

『このとほりは僕等がアカシヤがいと呼ぶのだ。彼處に大きい煉瓦造りが見える。あれは五番館といふのだ。………奈何どうだ、氣に入らないかね?』

『好い! 何時までも住んでゐたい――』

 實際私は然う思つた。

 立見君の宿は北七條の西何丁目かにあつた。古い洋風擬ひの建物の、素人下宿を營んでゐる林といふ寡婦やもめの家に室借りをしてゐた。立見君は其室を『猫箱』と呼んでゐた。臺所の後の、以前は物置だつたらしい四疊半で、屋根の傾斜なりに斜めに張られた天井は黒く、隅の方は頭が閊へて立てなかつた。其狹い室の中に机もあれば、夜具もある、行李もある。林務課の事業手といふ安腰辨の立見君は、細君と女兒と三人でそんな室にゐ乍ら、時々藤村調の新體詩などを作つてゐた。机の上には英吉利人の古い詩集が二三册、舊新約全書、それから、今は忘れて讀めなくなったと言ふ獨逸文の宗教史――これらは皆、何かしら立見君の一生に忘れ難い記念があるのだらう――などが載つてゐた。

 私もその家に下宿する事になつた。尤も空間は無かつたから、停車場に迎へに來て呉れたも一人の方の友人――目形君――と同室する事にしたのだ。


−−−−−−−−−−−小説「札幌」の一部分、ここまで

札幌駅に迎えに来てくれた向井夷希微は、小説では立見君という名で登場しています。

啄木は東京に行ったことはありますが、岩手県の渋民村、盛岡、函館とは違う北の果ての大都会札幌を見てびっくりしたようです。

啄木が札幌に滞在したのは2週間ほどで、小樽の「小樽日報社」創設に参加するため、小樽に居を移すことになります。

石川啄木の時代に「五番館デパート」があったんですね。

「五番館デパート」(1893年創業)は老舗の百貨店で、北海道内に多数あった「丸井今井」(1916年創業)とともに、道内資本の百貨店として、ドサンコ・札幌人に愛されたデパートでした。

西武がその経営を引き継ぎ、一時「西武五番館」という名前の時期がありましたが、現在は西武札幌店となっています。

 
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2007年09月06日

古本屋で欲しかった本をみつけました


このブログにたびたび石川啄木のことを書いていますが、実は啄木の詩集や歌集をちっとも所持していません。

WEBで作品を読める時代だから、それでもいいかなと思っているのですが、「蔵書」という言葉が好きで、自分の手元に本を置いておきたいんですよ。

書店に行って啄木の本を探してみるのですが、近所の書店にはあるはずもない、札幌の中心部に出かけなきゃだめかなと思います。

近所の図書館で借りてきてもいいんだけど、10日ぐらいで返しに行くのが面倒だしね。

今日、床屋に行ったついでに、近くにあるリサイクルショップに入ってみました。
古着、フィギュア、ゲームソフト、CD・DVD、古本、・・・規模の大きいリサイクルショップで、あるわあるわ、たいへんな品数が揃っています。

古本の棚に行ってみたら、ありました!

新潮文庫「一握の砂・悲しき玩具」金田一京助編
 昭和27年5月15日発行、昭和63年6月30日第67刷
 定価280円

角川文庫「石川啄木詩集」伊藤信吉編
 昭和41年9月15日初版発行、昭和55年6月30日第21刷発行
 定価300円

他には探せなかったのですが、大満足です。

1冊105円、3冊で210円と表示されていたので、近くにあった宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を加えて、210円。

持ち帰って、さっそく開いてみたら、このころの文庫って、字が小さかったんですね。ルビなんかとても裸眼では見えないから、ルーペを出して読みました。

それと、古本って、読んだ後、手を洗いたくなりますね。

古い本を安く手に入れることは出来るけど、直筆ではないんだし、誰かが編集しているんだから、新品のほうがいいのかなと思いました。

で、楽天ブックスで検索してみたら、古い本の復刻版なんかもたくさん出版されているんですね。
啄木の短歌や詩集が今の時代にも続々と新刊で出版されているのに驚きました。

 
 
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2007年09月03日

石川啄木 函館の碧血碑


石川啄木の歌にこんな歌があります。

函館の臥牛の山の半腹の碑の漢詩もなかば忘れぬ


函館山は牛が臥せているように見えることから「臥牛山」(がぎゅうざん)とも呼ばれます。

函館市外から函館山を見て、左側、立待岬がある方向が牛の頭です。

石川啄木が住んでいた青柳町からちょっと登ったところに「碧血碑」(へっけつひ)があります。
山の中腹というより、ふもとに近いところです。

啄木はこの碑のことを歌にしました。
啄木自身、漢詩を作ったりもしていたようで、この詩にも興味があったのでしょう。

この碑に書かれている漢詩は詩というより説明文です。

「明治辰巳実有此事 立石山上叺表歔志」

「明治2年、このできごとは実際にありました。山上に石を建てて悲しみの気持ちを表します」 という意味です。

このできごととは・・・。

戊辰戦争、わけても五稜郭城を拠点にして戦った箱館戦争(五稜郭戦争ともいう)のことです。

戊辰戦争とは、慶応4年/明治元年、王政復古で成立した明治新政府が江戸幕府勢力を一掃した日本の内戦で、1868年の干支が戊辰(つちのえ・たつ)だったことからこの名前で呼ばれています。

会津の白虎隊もこの戦争の中でのできごとです。

旧幕府軍の榎本武揚は船で北海道に上陸し、函館の五稜郭を拠点にして新政府と戦いますが、結局、旧幕府軍は負けたことにより、日本は統一され、明治時代が始まっていくわけです。

この箱館戦争で戦死した旧幕府軍の兵士は800人。
新撰組の土方歳三もこの戦争で亡くなっています。

新幕府はこの戦死者を弔ってはいけないという命令を出しますが、函館の侠客「柳川熊吉」が遺体を収容して埋葬しました。
当然、命令違反について追及を受けますが、堂々たる態度に気おされ、明治幕府も黙認せざるを得なかったようです。

賊軍であった旧幕府軍戦士を祭った経緯もたいへん興味あることですが、石川啄木もこのような出来事に対しては強い興味を示し、血が騒いだことと思われます。

戦死した人の7回忌にこの碑が建てられています。

「義に殉じた武人の血は、3年経つと碧色になる」という中国の故事にちなんでこの碑ができました。

碧色とは、薄緑色、紺碧の空の「碧」です。

高さが8mもあるりっぱな碑です。

石川啄木がこの「碧血碑」を見たのは、明治40年(1907年)、満21歳のときで、五稜郭戦争から38年後のことです。

函館の歴史も深いものがあるんですね。
啄木の歌から、とんだところに興味が移ってしまいました。
 
  
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2007年08月31日

初恋 ダイキン工業 砂山の砂に腹這い


最近、テレビのコマーシャルで「砂山の 砂に・・・」というソプラノの曲が流れています。

ダイキン工業のコマーシャルで、空気がきれいなイメージを訴えているようです。

聞いたことがある歌詞・フレーズだと思ったら、石川啄木の歌ではありませんか。

砂山の砂に腹這い初恋のいたみを遠く思い出ずる日


朗々と歌う歌、さわやかな海の風が吹き抜けていきます。

ダイキンのこのコマーシャルは数年前にも放映されているようですが、曲もいいですね。

越谷達之助作曲、オペラ歌手鈴木慶江が歌う初アルバム「フィオーレ」をみつけました。



石川啄木の「初恋」など全11曲、¥2,800

クラシック歌手が歌う歌っていいですね。
このコマーシャルを機に、「千の風」並みにCDが売れるかな?
 
 
posted by GG at 22:35 | Comment(0) | TrackBack(0) | 石川啄木

石川啄木「東海の・・・」は函館の歌?


漂泊の歌人石川啄木の代表的な歌

   東海の小島の磯の白砂に
   われ泣きぬれて
   蟹とたはむる

この歌は石川啄木の処女歌集「一握の砂」の冒頭に収められている歌です。
「一握の砂」は石川啄木が生前に発刊されていますから、啄木自身が編集・校正しています。

啄木自身もお気に入り・自信作、また、自身を表現する作としてトップに持ってきたものと考えられます。

歌集の題名となった「一握の砂」は歌集の2番目に収められている次の歌を基にしたと考えられます。

   頬につたふ      (つたふ=伝う)
   なみだのごわず    (のごわず=拭わず)
   一握の砂を示しし人を忘れず

函館の立待岬にある「啄木一族の墓」には「東海の・・・」の歌が刻まれています。

GGはこの「東海の・・・」が函館の大森浜のことを歌ったものだと信じて疑いませんでした。

しかし、この歌を読みながら大森浜をイメージしてみると、どうも、しっくりこないんです。

大森浜は砂浜、磯はない。
小島なんか見当たらない。

「東海」とか「小島」とか「蟹」は、地理的・物質的なモノではなく、精神的・観念的な比喩と解釈する説もあるようですが、それはそれとして・・・。

で、啄木の年譜や全国にある歌碑などを調べていたら、こんな記事をみつけ、愕然としました。

青森県の下北半島の先端にある大間町、その町の大間崎に啄木の歌碑が3基建っています。

刻まれている歌は「東海の・・・」と、あと2つ。

   大海にむかひて一人
   七八日
   泣きなむとすと家を出でにき

   大という字を百あまり
   砂に書き
   死ぬことをやめて帰り来れり

なぜ青森県の大間崎にこんな歌碑があるのでしょう?

1902年(明治35年)7月、啄木が下北半島を徒歩旅行したという記録がありました。啄木はこのとき16歳、盛岡中学校5年生でした。

GGは青森県大間町の大間崎に残念ながら行ったことがないのですが、海岸線の先に小島があり、磯には蟹が群れているさまを容易に想像することができます。

学業成績が抜群であった啄木は、後の妻節子との恋愛に気を取られ、文学熱も高まって、成績が落ちてきます。加えて、2度のカンニングがみつかり、譴責処分を受けた時期です。

そんな重荷を背負って歩いた、下北半島の本州最先端の地は、啄木の心をわずかながら癒してくれたようです。

この後、10月には中学校退学を決意して上京します。

こうした背景を考えたとき、GGは「東海の・・・」および上記2首も、大間の旅を追憶して歌ったものとするほうがしっくり納得できるのです。

このことは、これらの歌が「一握の砂」の冒頭部分に集められていること、また、「函館」については300番目以降に多いことからも、この説に賛成できます。

長い間、石川啄木の代表的な歌「東海の・・・」がGGの生まれ故郷「函館」の歌であると思い込んでいたGGにはとても残念なことですが・・・。
 
 
posted by GG at 18:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | 石川啄木
2007年08月23日

トウモロコシがおいしい季節です




GGの家族、とうもろこしが大好きです。
スーパーに買い物に行くたびに買ってきます。

スーパーでは今、1本95円〜120円ぐらい。
安いからいいわけではなく、大きさとか品種とか、いろいろあるんですよね。

このごろは品種改良も進んで、写真のような真っ白なトウモロコシもあります。甘くて、皮がやわらかくて、生で食べてもおいしいそうです。

「・・そうです」ということは、GGはまだ生で食べたことがありません。だって、茹でたての湯気から香るあの香りがいいんですよ。

北海道の玉蜀黍、なぜおいしいかというと、昼と夜の寒暖の差が大きいからだそうです。
日中、温度が上がり、トウモロコシが生長します。夜になると、ぐっと気温が下がって、トウモロコシはこりゃあいかんと考えて、実に養分を蓄えるのだそうです。

それから、とうもろこしの豆知識。

トウモロコシには髭があります。白髪です。
あの毛の数と、トウモロコシの実の数が同じなんだそうです。
時間がある方は数えてみてください。

石川啄木の「一握の砂」にこんな歌があります。

   しんとして幅広き街の
   秋の夜の
   玉蜀黍の焼くるにほひよ

焼きとうもろこしもおいしいですね。

送料をかけても満足していただけるようです。


 ¥ 2,200 送料(クール便)1,000円
 
  
posted by GG at 17:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | 石川啄木
2007年08月04日

「ヤグルマソウ」をみつけました


漂泊の詩人と言われる「石川啄木

わずか1年ほどの北海道滞在の間に、数々の足跡を残しています。
わけても、GGの故郷函館のことを歌った歌も多く、このブログにもたびたび紹介しています。

  函館の青柳町こそかなしけれ
  友の恋歌
  矢ぐるまの花

この歌は石川啄木の処女歌集「一握の砂」に収められている歌です。
この歌に出てくる「矢ぐるまの花」って、どんな花なんだろうとネットで調べてみました。

やぐるまそうは「ヤグルマギク」とも呼ばれるキク科の花です。
ピンクと白と濃いブルーがあります。

ユキノシタ科の「やぐるまそう」という別のものもあるそうで、こちらは、ススキの穂のような無数の白い小さな花をつけます。

ネットのページには写真もあるのですが、咲いている花はもちろん、園芸店で売っている花を見ても、名札がついていなければ、わからないだろうなと思います。

だいたい、園芸店などで売っているのを見たことはありません。

ところが、富良野のラベンダー園を見に行ったら、「ファーム富田」という有名なラベンダー園に「やぐるまそう」の花畑があったんですよ。
やぐるまそう

ちゃんと、名札がついていました。
まったく思いがけないことだったので、感動しました。

yagurumasou2.jpg

デジカメの写真をプリントしてじっと眺め、その余韻でこんなものを作ってみました。




Adobe・Flash を使っています。

Flashをいじったのは、久しぶりです。

Adobe(アドビ)の製品って、素人にはなかなか使いこなせないんですよね。その分、使いこなせたらプロ気分になれるんだろうなと思い、懸命に取り組んだ時期がありました。

Flash、Photoshop、Illustrator、どれもこれも難しかったですね。
おまけに、Premiere Elementsというビデオ編集ソフトまでいじりだしたら、おもしろくて、時間がかかって、むずかしくて・・・。

それでも、なんとか形になってくると、奥の深さに気がついて、またまた、悪戦苦闘。
「プロフェッショナル気分」には、なかなかなれませんでした。

そのアドビ製品の体系が「CS3」に変わりましたね。



そして今、Flash CS3 Professional、Photoshop CS3、Illustrator CS3, Fireworks CS3を利用してスゴロクのコマを制作し、作品を投稿する「Adobe スゴロク CS3 - キューブ AWARDS 2007」を実施しています。

応募は9月19日までで、審査の結果、グランプリおよび各賞に選ばれた作品は2007年10月29日〜2007年12月末まで「Adobe スゴロク CS3」盤面上でゲームのコマおよびブログパーツ・ブログツールとして紹介されます。

また最高賞であるグランプリについては授賞式にも招かれるそうです。
ウェブデザイナーの勲章ですね。

だけど、コンテストに参加するには「CS3」を買わなきゃならないし、どだい素人にはコンテストに参加することすらムリ、ムリと思ってサイトを見たら、意外や、そうでもなさそう!

「CS3」シリーズの試供版がフリーで使えるし、テンプレートに沿って作れば、応募ぐらいはできそうですよ。

まあ、グランプリなんてムリとは思うけど、最新のグラフィックソフトを使って、たのしむことぐらいは出来そうです。

気になる方は、さっそくスゴロクCS3のサイトをチェック!

このサイト、スゴロクゲームが出来るんですが、さすがアドビのサイト、凝ったつくりには驚いてしまいます。
 
 
posted by GG at 18:51 | Comment(0) | TrackBack(0) | 石川啄木
2007年07月22日

歯が白く 且つイケメンの人


漂泊の詩人と言われる「石川啄木」

GGの故郷北海道函館に縁の深い詩人・歌人なので、中学生のころから特別な思いで、石川啄木の歌に興味を持っていました。

だから、ときどき、このブログにも紹介しています。

こんな歌があります。

  手が白く
  且つ大なりき
  非凡なる人といはるる男と会ひしに

昨夜、サッカーアジアカップの決勝トーナメントが始まり、日本はオーストラリアと対戦して優勢ながら点を奪えず、結局、PK戦で準決勝に進むことが出来ました。

イビチャ・オシム監督、試合後の記者会見でなんと言うのか、いつも愉しみです。
ありきたりのことを言いませんからね。

とにかく、先に進むことができたので、ほっとしているようでした。
色白で、手が大きい人、人物も大きい人なんだろうと感じます。

インタビューを聞いていて、石川啄木のこの歌を思い出しました。

こんな替え歌いかがですか。

  歯が白く
  且つイケメンの
  非凡なる人といわるる男に会いしに

思いつくのは新庄剛志選手

引退して、タレント業に精を出しているようですが、テレビコマーシャルによく出てきます。
缶コーヒーでは「*/(&%#$<?¥」

白い歯の代名詞のような人ですね。
ずいぶんお金をかけたようですが、すごく健康そうに見えます。

札幌ドームでスーツ姿の新庄選手を見たことがあるんだけど、遠目で見ても歯の白さがよくわかります。

あれって、すごくお金がかかるから、芸能人なんかしか出来ないだろうと思っていたんだけど、近ごろはそうでもなくなってきているそうですよ。

「エンジェルクラウン」が従来の常識を破る価格で白い歯を実現したそうです。



「クラウン」というのは、虫歯治療で歯に被せるもの。
金・銀などを使うのが従来の方式だけど、セラミックで作った白い歯を作るんですね。

コンピュータ・CAD/CAMの技術を利用して、低コストを実現しました。

「ニッ」と笑ったときの白い歯、魅力ですね。

それだけで、「イケメン」!!!
 
 
posted by GG at 12:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | 石川啄木
2007年07月17日

小樽駅西にある石川啄木の歌碑


小樽駅のそばを通ったので、石川啄木の歌碑を探してみました。

小樽駅の正面には、石川啄木と小樽との縁について説明板があるのですが、歌碑らしいものは見当たりません。

路線バスの運転手さんに聞いてみたら、ほかの場所の歌碑は知っているけど、駅の近くにあると聞いたことはない、と言います。

駅の中の観光案内所に行ってみました。

地図を出して、駅の近くの三角市場の近くにあるそうです。
ほかの場所の歌碑についても教えてくれました。

今日は駅の近くの歌碑だけと思っていたので、探してみました。

駅を出て、駅前の通りを左方向(西)に歩くと商店街があり、左に曲がって急な坂を登ると、三角市場の幟が見えてきます。

入り口に向かって歩いていくと、ありました。

りっぱな歌碑です。

小樽駅前の啄木歌碑

後ろに見えるのはJR小樽駅です。
三角市場の幟がちょっとじゃまですね。

碑に刻まれている歌

啄木歌碑の歌

 子を負ひて
 雪の吹き入る停車場に 
 われ見送りし妻の眉かな

石川啄木は1907年(明治40年)21歳のとき、函館の大火に追われ、札幌の新聞社に一時勤務した後、小樽の小樽日報社に勤務します。

9月から12月まで勤務したのですが、上司との折り合いが悪く、退職し、翌年1月、家族を小樽に置いたまま、釧路の釧路新聞社に単身赴任します。

それを小樽駅に見送りに来た妻子のことを歌った歌です。

妻の『眉』が啄木にどんなふうに見えたのか、少なくとも明るい眉とはいえなかったでしょう。汽車を待つプラットホームには雪が降りしきります。

モノクロ映画のようなシーンが目に浮かびます。
 
 
posted by GG at 22:46 | Comment(0) | TrackBack(0) | 石川啄木
2007年06月28日

「千の風になって」石川啄木


石川啄木に関する本が欲しいと思って、ネットをあちこち探していたら、「千の風になって」に遭遇しました。

「千の風になって」は、テノール歌手・秋川雅史さんが昨年のNHK紅白歌合戦で歌い、大ヒットしている曲です。

作詞者不詳、作曲は新井満(あらい・まん)さん。

実は新井満さん自身もこの歌を歌い、CDを出しているのですが、こちらはあまり売れていないようです。

さて、「千の風になって」がなぜ、石川啄木と関係があるのでしょうか?

楽天ブックスにこんなものをみつけました。



作曲・編曲「新井満」石川啄木歌曲集「ふるさとの山に向ひて」(CD)

1.歌曲篇::第一章「ふるさとの山に向ひて」(深夜便のうた)(4:38)

2.歌曲篇::第二章「一握の砂」(4:12)

3.歌曲篇::第三章「啄木さすらい」(3:31)

4.歌曲篇::第四章「啄木慕情」(3:08)

5.歌曲篇::第五章「東京銀座午前ニ時」(2:38)

6.間奏曲::特別収録「ふるさとの山に向ひて」(4:35)

7.朗読篇::第一章「ふるさとの山に向ひて」(朗読バージョン)(4:54)

8.朗読篇::第二章「一握の砂」(朗読バージョン)(4:12)

9.朗読篇::第三章「啄木さすらい」(朗読バージョン)(2:59)

10.朗読篇::第四章「啄木慕情」(朗読バージョン)(3:04)

11.朗読篇::第五章「東京銀座午前ニ時」(朗読バージョン)(3:18)

12.終演曲::「ふるさとの山に向ひて」(混声四部合唱)(4:36)

13.終演曲::「ふるさとの山に向ひて」(アンサンブル・バージョン)(4:52)

なかなかの内容です。

元になっている歌は

  ふるさとの山に向かひて
  言ふことなし
  ふるさとの山はありがたきかな

啄木歌集「一握の砂」に収められている歌です。

啄木のふるさとの山は「岩手山」

誰しもふるさとの山に対する思いはあるもので、GGは函館山、札幌市民は藻岩山・・・。

このCDを聞きながら、ふるさとの山に思いを馳せてみましょうか。
 
 
posted by GG at 22:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | 石川啄木
2007年06月24日

石狩の 都の外の 林檎園


札幌市豊平区に天神山という小高い丘があります。
一帯を「天神山緑地」といっています。

丘の上には、外国の研究者のための「天神山国際ハウス」という施設があり、緑地全体、手入れも行き届いていて、ホッとする空間があります。

すぐ近くは平岸街道などの車の通行が多い道路とは思えない清閑な空間です。

無料駐車場もあり、高齢者やペットを連れた人たちがゆったりと歩いていました。

みごとな日本庭園があります。

天神山緑地の日本庭園

写真ではわかりにくいのですが、滝があります。
周囲には遊歩道があり、咲き終わりのあやめがたくさんありました。

ちょっとした遊具もありますが、それよりもゆったりと散歩するのが似合う公園です。

ここには文学碑が2つあります。

GGのお目当ては「石川啄木」

天神山 啄木の文学碑

歌碑には次の歌が刻まれています。

天神山 啄木の歌

  石狩の都の外の
  君が家
  林檎の花の散りてやあらむ

この歌は石川啄木が函館の弥生小学校代用教員時代、同僚であった橘智恵子の実家から送られてきたリンゴのことを歌ったものです。

札幌の平岸という地域は古くからリンゴ栽培が盛んで、この歌碑はそれを記念して建立されたもので、啄木の歌碑の右にある石碑にその由来が刻まれています。

この碑を建立する際、リンゴにちなんだ歌を探したところ、啄木のこの歌がふさわしいということになったようで、石川啄木自身はこの地に来たことも無かったようです。

啄木の歌碑から降りたところに「久保栄」(くぼ・さかえ)の文学碑があります。

久保栄 林檎園日記の碑

久保栄は「火山灰地」「五稜郭血書」などを代表作とする作家・劇作家です。

札幌生まれで「林檎園日記」の書き出しの部分が碑に刻まれています。
(念のため、久保栄は男性です)

今の季節は緑が美しく、札幌のシンボル藻岩山が間近に迫り、すばらしいところでしたが、サクラの木がたくさんあり、サクラの季節や紅葉のころにも是非また来なければと思いました。
posted by GG at 22:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | 石川啄木
2007年06月12日

石川啄木、札幌での下宿跡


詩人・歌人の石川啄木は1907(明治40)年、函館の「函館日日新聞」遊軍記者をしていたのですが、このころ、妻子や母、妹を迎え、やっと落ち着いた生活を始めたところ、8月25日の夜、函館大火に見舞われ、追われるように札幌に移住しました。

札幌の北門新聞社に勤めるのですが、その間、下宿していた場所がJR札幌駅の近くにあるというので、探してみました。

JRさっぽろ駅北口、かつては駅の裏玄関でした。南口と北口ではずいぶん差があったものですが、今の北口もすごい賑わいでした。

高層のビルが建ち、車の量も南口にひけをとりません。

石川啄木の胸像と下宿跡の説明板があるのは、「札幌クレストビル」です。

駅の北口を出て左(西)に100mほど行くと、その並びに「クレストホテル」があります。
1階は喫茶店などになっていて、2階がホテルのフロントです。
ホテルのフロントに聞いてみたら、「ここはクレストホテルで、クレストビルは別の場所です」と言われてしまいました。

親切に場所を教えてくれたのですが、このホテルと道路を挟んだ北側にクレストビルはありました。

クレストビルのエントランスを通り、ビルに入ろうとしてチラッと右を見たら、そこに石川啄木が鎮座しているではありませんか。

石川啄木の下宿跡

石川啄木の胸像

薄暗いところにあったので、一瞬気がつきませんでした。

ケースに収められていて、フラッシュが反射して写真もうまく撮れませんでした。

「北区歴史と文化の八十八選」の看板がありました。
札幌市北区が管理しているのでしょうか。

石川啄木下宿跡の説明板

こんなことが書いてありました。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
北区歴史と文化の八十八選
3石川啄木の下宿跡

 詩人・石川啄木が函館から札幌入りしたのは、明治40年(1907年)9月14日のことである。札幌停車場に午後1時すぎ到着した啄木は、詩友・向井夷希微(いきび)らに迎えられ、彼らの宿でもあった「北7条西4丁目4番地・田中サト方」の住人となった。ときに満21歳。ここはその下宿があった場所である。
 滞在2週間であわただしく札幌を去るが、勤め先の北門新報に「札幌は寔(まこと)に美しき北の都なり。」の印象記を残し、またしても小樽、釧路へと放浪の旅に出た。
   平成14年4月
   札幌市北区役所
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

しかし、実際に下宿があった「北7条西4丁目4番地・田中サト方」の場所はここではなく、このビルから西に1分ほど歩いたところにある「北7条郵便局」です。

ビルの1階が郵便局の窓口、上は「かんぽの宿」になっているようです。
ここには石川啄木の足跡を残すものはまったくみつかりませんでした。

さっぽろ大通公園にある歌碑に刻まれている歌

  しんとして幅廣き街の
  秋の夜の
  玉蜀黍の焼くるにほいよ

posted by GG at 18:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | 石川啄木
2007年02月11日

大通公園 石川啄木の銅像 しんとして


さっぽろ雪まつりを見に行ったとき、大通公園3丁目に石川啄木の銅像が建っているのを発見しました。

takuboku_odori3.jpg

実はこんなところに石川啄木がいたとは知らず、びっくりしました。

啄木の左側にある歌碑には次の歌が刻まれていました。

  しんとして幅廣き街の
  秋の夜の 
  玉蜀黍(とうもろこし)の焼くるにほいよ

石川啄木は明治40年(1907年)8月、函館の大火に追われるように札幌に来て、半月ぐらい出版社の校正係として働いています。

その後、すぐに小樽に行ったわけですが、短い札幌の滞在で札幌の町を散策でもしたのでしょうか。

ちなみに、札幌大通公園は明治4年に作られていますので、石川啄木もここに立ち寄ったことが想像できます。

幅の広い道に気を留め、どこからともなく漂ってくるとうもろこしの匂いに、田舎っぽい大都会という感じを持ったようです。

札幌を歌った歌にこんな歌があります。

  札幌に
  かの秋われの持てゆきし
  しかして今も持てるかなしみ

北海道一の大都会には来たものの、火事により追われてきたということもあって、うきうきした気分ではなかったようです。
posted by GG at 16:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | 石川啄木
2006年08月10日

石川啄木文学展に行ってきました。


bungakukan.jpg

石川啄木は、GGが文学少年だったころ、大好きだった歌人です。

続きを読む
posted by GG at 18:17 | Comment(0) | TrackBack(0) | 石川啄木





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